非中央集権と東洋的思想

Yuya Sugano
23 min readJul 20, 2019

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ビットコインの誕生以降、金融や経済または政治など様々な文脈でブロックチェーンの適用について議論がなされている。お金とはなにか。信用とはなにか。それから技術的視点の討論も多いがそれだけでは根本理解に至らない。ここではブロックチェーンの背後に存在する非中央集権および分散化と社会における思考の面からその関連性を探ってみる。書籍などで既に記述されている点も多いが重複や内容の至らぬ点はご容赦願いたい。

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チューリップ熱

2010年5月22日、ラースロー・ハネツは自宅で大量にマイニングしていた10000ビットコインと引き換えに近所の男性にピザの宅配を依頼した。これがビットコインを使用した現実世界での初めての支払いだと言われている。当時のビットコインレートはマイニングに必要な電気代から計算され、10000ビットコインは約25ドルであった。2009年12月17日にビットコインは最安である1ドル1630.33ビットコインを記録し、2018年の高騰時には1ビットコイン1万9783ドルを突破している。[1]

2009 Exchange Rate

最安の2009年から約9年間でその価値は3000万倍以上に膨張し、また一挙に下落したことになる。ビットコインはそのボラティリティの高さやまた稀少性に対する懐疑性からマネーではなくオランダのチューリップバブルなどと同様の投機的商品であるという見方があった。そもそも投機的商品であるとはどういうことだろうか、チューリップバブルの現象を学んでみたい。

1636年から1640年にかけてオランダ東インド会社の株式、運河や灌漑計画への投資が急増した。アムステルダム証券取引所で売買されるオランダ東インド会社の株式は1636年3月から1640年までで倍以上の上昇を見せていた。それと同じ時期にチューリップバブルは発生し、1636年9月以降、特にチューリップ熱が高まったと記録されている。

ピーター・ガーバーは、『チューリップの稀少な品種の価格が暴騰したのは遺伝学的に品種改良が難しいというファインダメンタルズに基づくためであり、価格が暴落したのは、栽培に成功し再生産できるようになったためだ』と言っている。だが実際には稀少ではない一般的なチューリップ種についても一様に価格が高騰していた。[2]

このことについてジャン・デヴリスは運河計画とチューリップバブルは1622年から1660年のオランダ経済の爆発的な成長に関連していると考えていた。複合的な現象だったのである。17世紀オランダの投資の過熱と環境の変化は、ビットコインに続き様々なトークンや詐欺が横行していった様子に似ているとも言える。ビットコインや仮想通貨は市中を流通する銀行券と同等のお金でなく、ただの投機商品であるという批判にも一定の説得力があった。ビットコインとはお金(以下マネー)なのだろうか。マネーなのだとするとそれはチューリップの球根価格が急騰したこととはどう異なっているのだろう。

ところで日本においても明治5年に兎の流行があった。秋口から珍種の兎に値が張るようになり、そのうちに生活の駄目になった旧大名や公卿であった士族を中心として香港や外国から輸入した兎を買いあさるようになった。版籍奉還の後にわずかな公債を質に入れて兎を購入する士族にとってはまさに死活問題だったに違いない。色を故意に西洋絵具で染めて販売する悪徳業者も出てきたため東京府は明治6年の1月に兎売買を止めさせるようにという布告を市民に出している。[3]

Meiji era Rabbit craze in Japan

その年の年末には各区役所で兎の所持を届け出制とし、無届けで所持していた市民からは1羽あたり2円の税金を徴収することにしたというから驚きである。この税制度によって急降下した兎の価格によって全財産をなくすものが続出した。皮肉なことにこの様子は現代の投機や金融危機による混乱と全く変わるところがない。

銅にあらず信用なり

マネーとは何か。一般的にはマネーは「モノ」だとされてきた。遥か昔、まだお金というものが存在しなかったとき、人々は物々交換で商品のやり取りをしていた。しかしこのやり取りでは効率が悪い。自分の欲しいものを相手も持っている場合にしか価値交換が成立せず、また交換価値が等しく釣り合わないとどちらかが損をする可能性があるからだ。

だから昔の人はある「モノ」を選びそれを交換のための道具とすることにした。それは貝殻であったり石であったりしたが人々は徐々に金銀を使うようになった。なぜなら金属は耐久性があり、溶解などによって分割や統合が可能で、また金(銀)については稀少性があるからだ。アダム・スミス『国富論』の「通貨の起源と利用」の中でも同じような主張がされている。[4]

「不便を避けるために、分業が確立した後、自分の仕事で生産したもの以外に、他人が各自の生産物と交換するのを断らないと思える商品をある程度持っておく方法を取ったはずである。」

この貨幣論は一部の人々の中で根付き、過去の様々な経済学の数理分析の基礎ともなっている。ところが1980年以降の研究においては、信頼できる情報が得られる過去に遡って、また現在の経済制度においてもマネーを使わない物々交換が主流であったことは1度もない、とされている。

「物々交換から貨幣が生まれたという事例はもちろんのこと、純粋で単純な物々交換経済の事例さえ、どこにも記されていない。手に入れることができるすべての民族誌を見るかぎり、そうしたものはこれまでに1つもない」

ケンブリッジ大学の人類学者であるキャロライン・ハンフリーはこのように結論付けた。[5]

また経済史家であるチャールズ・キンドルバーガーも著書の中で貨幣経済が物々交換経済から発展してきたという考えは間違っていると指摘している。

マネーが物々交換経済からやってきたという誤りは現代の経済制度を見れば明らかである。金銀本位制が崩壊してからドルもユーロも円も、現物資産には一切裏付けのされていないフィアットマネーとなっているからだ。それどころか紙幣や硬貨といった現物すら現代のマネーにはない。アメリカドルの90%は物理的な実態がなく、電子的に記録されているだけの数字となっている。

George Washington on 1 dollar

興味深い事例を紹介する。1970年5月1日、アイルランド共和国では銀行職員組合のストライキが発生し、6か月半近くもの間中央銀行が閉鎖された。だが硬貨や紙幣の流通が止まったにも関わらず取引が止まることはなかった。それどころかアイルランド中央銀行が後にまとめた報告書によれば、アイルランド経済は機能し続けただけでなく、経済活動の水準はその間に上昇していたという。

個人や企業は小切手を使用してこの急場を凌いでいた。通常であれば小切手は営業日の終わりに現金化できるが、銀行が閉鎖されている状況では、小切手はただの借用書でしかない。小切手を清算できないので当座預金を超過して振り出すことを防ぐ手立てはなかった。個人や企業は小切手が不渡りにならないか相手を信用して取引を行うしかなく、この信用取引によってアイルランド銀行が再開されるまでに総額50億アイルランド・ポンドもの未精算の小切手が積みあがっていたという。この50億アイルランド・ポンドには硬貨も紙幣も一切含まれてはいない。支払いがされるかどうか分からない小切手だけで生み出されたマネーだった。アイルランド社会は、既存の銀行システムの代わりとなるような、債権債務を処理する信用システムを自ら作り出していたのだ。

マネーシステムは抽象的な経済的価値を測定し、信用を取り扱う社会的技術である。

  • 抽象的な経済的価値単位をもつ
  • 信用取引・清算をおこなう
  • 第3者への譲渡が可能である

マネーとは『信用の鎖』(A chain of Trust)であり、上の述べた3つの要件を満たすものが伝統的にマネーとして使用されてきただけに過ぎない。それが硬貨や紙幣であり、また時には商品(モノ)であったときもあるというだけだ。アイルランド銀行閉鎖の例では、それは小切手だった。

中世のヨーロッパの大市(例えばリヨン)で為替手形が裏書付きで使えるときこれは既にマネーなのである。しかしあなたが友人への借金の支払いに衣類を使いたいとするとそれはマネーではない。それは二者間の信用取引だからだ。友人がその衣類による債務支払いを受けたとしてもその衣類は他のお店や個人への支払いには使えないだろう。すべてのマネーは信用だが、すべての信用がマネーではないからだ。

だから人々は過去様々な形でマネーを創造してきた。ミクロネシアのヤップ島の石貨『フェイ』、中世イングランドのタリー、アルゼンチンの『パタコン』からその歴史がよくわかるはずである。[6]

1565年にオスマントルコ軍がマルタ島に侵攻してバレッタを包囲した。軍が商船を攻撃して物資の輸送を妨害したため、マルタでは金銀の供給が著しく不足し始めた。マルタ騎士団は代わりに銅を使って硬貨を鋳造したが、その硬貨は金銀硬貨と同じ価値を保ったという。その銅貨にはこう書かれていた。

銅にあらず、信用なり

非中央集権という解

マネーとは社会的な技術であり、その表現方法や価値は常に人々が決定しているものである、ということを述べてきた。人々がマネーであると信じ、また債務として受け入れる限りはその対象物はマネーとして機能するということになる。ビットコインのような電子的に記録された情報であっても、マネーの要件を満たせばそれは信用の一形態として流布するのである。

アイルランドの銀行閉鎖の例のように、銀行や例えばクレジットカードがなく、紙幣や硬貨が使えないとしてもそれは大した問題ではない。債務債権を記録し取引を循環させることができれば、その時々に最適なものがマネーとして機能するからだ。 永楽通宝は金属ではあるが令和ではもう使えない。なぜならどの個人も銀行もその銅貨をマネーとしては受け取らないからだ。中世ヨーロッパで使用されたポンド、シリングやペンスも同様である。問題はその時々に最適なものをどこが発行するのか、どの発行体が管理するか、なのだ。つまりその債務証書が第3者が『受け入れると広く信じられているか』という点である。

古代から主権者はその信用力からマネーの主要な発行体として存在してきた。プライベートマネーやバンクマネーによる債務に流動性を持たせるためには常に主権的な権限が必要である。私設システムや証書為替制度はある特定の範囲にわたって信用性や流動性を及ぼすことができるが、最終的にはソブリンマネーによる流動債権で換算され管理されるようになるはずだ。なぜならソブリンマネーには社会における信認、国際的な国家としての債務を表象する力が備わっているからだ。アイルランドの銀行閉鎖の例においては、支払いに小切手が広く流通したが、最終的に積みあがった50億アイルランド・ポンドの債務債権の相殺にはアイルランド・ポンドが必要であった。アイルランド・ポンドはアイルランド銀行の銀行券であるというだけでなく、アイルランド政府によって認められたアイルランド中央銀行によって発行された国家の債務である。時代を少し遡ってみると現代のマネー制度である中央銀行の源流に行き着く。17世紀のイギリスで、主権者の持つ特権である信用を創造する権利と、その標準を管理する権限とが銀行へと分け与えられたことで現代の標準的なマネーの管理機構である中央銀行が発明されたのだ。

1694年、イングランドはフランスとの戦費の調達のために年間600万ポンド以上を費やしていた。名誉革命後にイギリス国王に推戴されたオランダ総督のウィリアム3世は、国王に即位すると、アウグスブルグ同盟に参加しフランスとの戦争を始めた。歳入不足を補うための税は重く、政府内では債務を解消するための様々な施策が検討されていた。その中の1つが公営銀行である『イングランド銀行』の設立である。政府や主権者が資金を調達する公営銀行を設立することは実は珍しくない。オランダでは1609年にアムステルダムで公営銀行が設立されているし、スウェーデンでも1656年にストックホルムで公営銀行が作られている。

提案はイングランドの財政を根本的に立て直すために、投資家はイングランド銀行へ出資し、銀行は政府へ貸し付ける、というものだった。ただ計画を行ったウィリアム・パターソンの案にはそれまでの公営銀行の設立とは大きく異なる点があった。それはイングランド銀行が国家財政の再建と国王の信用回復を援助する代わりに『イングランド銀行に銀行券を発券する権利を与えること』であった。つまり国家の信用を持つプライベートマネーを公営銀行が発行することを許可したのである。国家の信用の裏付けがあることでイングランド銀行の銀行券は広く流通するようになり、1709年にはイギリス国内での銀行券の発券を独占する権利を与えられるようになった。今では多くの国で信用創造は民間の銀行によってなされているが、各国の中央銀行の銀行券は、最終的な決済手段として銀行の当座預金にあり、次点の層にいる民間の銀行や金融機関が銀行間および政府への支払いをするときに必ず必要となる。1694年にイングランドでソブリンマネーとプライベートマネーが融合されたことが、現代のマネーの基礎となっているのだ。だがこのマネー制度は新たな複雑性をもたらすこととなる。『何を根拠にどのように標準を調整するか』だ。

2007年、サブプライムという低所得者向けのローンによる金融不安が発生し、イギリスのノーザン・ロック銀行で取り付け騒ぎが発生した。ホールセールでの短期資金が調達できなくなり、預金者が一斉にお金を引き揚げ始めたのだ。銀行の破綻は巨大な金融ネットワークにおいて甚大な影響を与え、債務を発行した銀行だけでなく、取引する他銀行の倒産や地域経済への打撃などシステミック・リスクが顕在化する。この場合には銀行が流動性危機に陥らないようにすることが肝心で、有事の際に中央銀行が『最後の貸手』として流動性の不足を解消することが現代の標準的な金融危機対策となっている。[7]

Wall street in New York

ノーザン・ロック銀行の取り付け騒ぎでは、数日で預金全体にあたる8%が(20億ポンド)が引き出され、イングランド銀行は流動性支援を行うことを決定した。債権保有者や預金者から支払い請求があった場合、銀行は中央銀行から資金供与を受け、払い戻しができるようにする。債券保有者や預金者は銀行に対する請求権の代わりに中央銀行に対する請求権を得る。つまり中央銀行の流動性債務へと付け替えられることでリスクを移動することができた。ところが数か月後、ノーザン・ロック銀行の問題は、単なる流動性不足ではないことが明らかになる。[8]

ノーザン・ロックの融資の多くが焦げ付いていたのだ。自己資本は毀損され、株価は大幅に下落していた。ノーザン・ロックは流動性不足だけでなく信用性不足にも陥っていたのである。この場合、資産と負債の溝を埋めるためには追加資本を注入して、自己資本がさらに減少する事態に備える必要がある。事態を重くみたイングランド銀行と政府は次の救済プランをすぐに用意する。

イギリス大蔵省は2008年2月にノーザン・ロックの株式を取得し国有化した。イングランド銀行と政府は流動性リスクだけでなく信用リスクをも中央機関へ移転したということである。本来であればノーザン・ロックの債権保有者が被るはずであったリスクを、政府が資本を注入することで、納税者が被ることとなったのだ。海を越えたアメリカでは2008年9月、 FRB(米連邦準備理事会)が 米国保険最大手のAIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)を国有化するにあたって850億ドルもの資金供給を決めた。

これ以来、中央銀行や政府は流動性支援だけでなく、信用損失の補填も行うモラルハザードを犯すようになっていった。最後の貸手が介入するとき最終的にその負担は納税者が行うことになったのだ。2007年から2012年にかけて、25か国が深刻な金融危機に見舞われ、そのうちの3分の2の国が銀行への信用支援に踏み切ったという。[9]

そして2008年9月のリーマンショック破綻の翌年2009年1月に、ビットコインは誕生する。最初のブロックであるジェネシスブロックが生成されたときその余白欄(電子的なメモ欄)にはこう書かれていた。[10]

The Times 03/Jan/2009 Chancellor on brink of second bailout for banks(『ザ・タイムズ』2009年1月3日、英財務相、銀行に2度目の財政援助へ)

これは同日の英国の全国紙『ザ・タイムズ』の1面トップ記事の見出しである。英国や米国が破綻の危機にさらされた主要金融機関を公的資金によって救済しようとした事実。一連の流れに対する不満や嫌悪がビットコインという中央主体に管理されない電子的な通貨を生んだのだ。

金融の国際化、複雑な証券スキーム、信用の不透明性。すべての問題はどうやって信用を管理するのか、何を根拠に基準を決めるのかということであった。中央銀行では巨大化し複雑になりすぎたシステムを適切に管理することができなくなっていた。ビットコインは中央主体を排除することでこの問題に1つの解を示した。非中央集権である。

ビットコイン(以下、仮想通貨)は、通貨の発行主体による信用力というアンカーからマネーを開放した。非中央集権によって信用力は政府や中央銀行が担保する必要はなくなりつつある。信用を世界中に分散化させ、参加する個々が信用を生み出すことに協力することで、透明性の高いマネー制度を確立したのである。このシステムの元では全てが白日の下に晒される。高度は金融スキームで複雑化した信用の輪の中にリスクを埋め込むことは難しくなる。

また通貨が電子的に表現されることで、マネーの可能性は飛躍的に高まった。シルビオ・ゲゼルの提唱した減価する貨幣における時間ベースの価値減価機能、バーナンキのヘリコプターマネーにおける不特定多数へのマネーの一斉分配などこれまで実現できなかった『機能』というものをマネー自体へ付加できるようになっている。

マネーが非中央集権という世界へ入ることで、国や銀行の持つ信用力に歪みが生じ、いままで築きあげてきた信用性と流動性のピラミッドは徐々に崩れつつある。またそれと同時にブロックチェーンという技術によって、非中央集権という思想がマネーだけではなく社会の分散化も同時にもたらしつつあるのだ。

分散化といま世界中で起きている分断化は全く異なる現象なので注意されたい、分断化はグローバリゼーションに対する反逆の狼煙であり、主権性やローカリゼーションを復興させる動きの一部であると考える

東洋的思想

Divide et impera

ラテン語で『分割し統治する』という言葉がある。ローマの時代、もしくはそれ以前からから人々はボスポラス海峡を隔て、西側を西洋そして東側を東洋と呼んできた。人々の争い、民族の対立、侵略と戦争。コンスタンティノープルからイスタンブールへ、古くはギリシャから東ローマ帝国、そしてオスマン帝国などここでは様々な国が栄華を極めてきた。争いとはまさに人々を分割し統治することである。

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鈴木大拙はその著書『東洋的な見方』の中でこの『分けて制する』という思考が西洋思想や文化の特性を表していると説いた。[11]

分割は知性の性格である。まず主と客をわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地など、すべて分けることが知性である。

西洋的知識の源泉はこの主客の区別をつけ客観的な立場から、事象を一般化し、概念化し、抽象化することであると考えられる。物事を概念化および抽象化したところから分類が始まり、しかるに論理が生まれる土壌が出現する。旧約聖書『創世記』第1章の3節と4節には以下のように書かれている。[12]

3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。

西洋的文化では『光あれ』から世界を始め、まず光と闇とを分けた。これが分割である。分けられたものの間には必ず争いが起こる。大航海時代、産業革命そして20世紀の大いなる物語に至る闘争は、西洋の分割と統治の妙である。西洋的な技であると言ってもよいかもしれない。この西洋的な分割的知性の世界では、何でもまず2つに分けてるところから始まる。この客観性の元では、物事をはっきりとさせておいて、誰にでも提示して説明して見せることができるように仕組んでいる。提示できるので、互いに、そのものの評判をしたり、値段をつけたりすることができるようになったのだ。

現代人の不安はこの分割的知性の限界にあると考えている。二度の大戦を経てから、グローバリゼーションやインターネットによって種々の境界は曖昧となり、人々はフラット化した世界を茫々と生きている。分割のない世界に西洋的思考に陥った人々は行き詰まりを覚えている。これが人々の心理的不安を掻き立てている可能性は大いにあるのではないだろうか。

東洋においてはこの主客による二元論、つまり分割的知性というものは元来それほど重視されてこなかった。西洋的心理が光が現れてからの事象に没頭するのに対し、東洋的な見方は光の現れるその刹那もしくは主客を分離する以前の風景へ触れようと努めているのである。東洋最初の思想家と考えられている老子の言葉を借りると『無状の状、無象の象』ということになる。西洋では物が分かれてから(分けてから)が物事の基礎となるが、東洋では渾然として一体となったままで物事が進んでいく。そこに分割はない。これが禅でいう『有限即無限 無限即有限』であり、般若心経ではすなわち『色即是空 空即是色』となるのだ。

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般若心経(正式には般若波羅蜜多心経)は、 大乗仏教般若思想を説いた経典で、ブッダの弟子であるシャーリプトラへ 観音菩薩が教えを説く様子で小本が構成されている。

般若心経では聖書のように光あれとして、世界を分割していくことはしない。観音菩薩の説くところによるとそれは『無無明 亦無無明尽』である現代語訳を参考とすると:[13]

なぜ世界が「空」という真実のもとに存在しているのかは、私にもわからない。ただ、世界は現にそのように「空」として在るわけだから、これは事実として受け止めるしかない。

さらには『乃至無老死 亦無老死尽』と展開されていく。

老いや死とは人間の眼から見た、概念としてのみ存在するもので、実際には「空」である存在が変化をして形を変えているだけである。

渾然と一体であるとは世界の状態(ワールドステート)であり、全体の在りようとも言える。渾然一体という東洋的思想が非中央集権の元で現前している様で、『大用 現存するとき 規則を有せず』とは雲門文偃による表現である。ここで規則とは知性的また客観的世界の模型であると言える。主と客、主体と客体と分割するから相対峙することとなるのだが、一様に一つという場合には、そこに能動的相対峙はなく、もはや一つという数ですら意味をなしてはいない。したがって無極が導かれる。

西洋の持つ二元性による一般化、概念化そして抽象化という技。これらは工業化そして大量生産という功利主義と機械化という現象を生み出してきた。いま混迷を極める世界情勢であるが、非中央集権化と分散化は東洋的思想を伴って新しい秩序の地平へと人々を誘っていくのではないだろうか。そしてそれはまだ始まったばかりなのだ。[14]

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Reference

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Yuya Sugano
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Written by Yuya Sugano

Cloud Architect and Blockchain Enthusiast, techflare.blog, Vinyl DJ, Backpacker. ブロックチェーン・クラウド(AWS/Azure)関連の記事をパブリッシュ。バックパッカーとしてユーラシア大陸を陸路横断するなど旅が趣味。

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