極度破砕する経済

Yuya Sugano
36 min readOct 27, 2019

余剰に生産されたエネルギーの量は、純粋な損失として失われる必要がある。これは非生産的な浪費と呼ばれることがある。資本の蓄積による多産力を暴力性に持つ資本主義は生産のための生産を行う効率的なシステムを作り上げてきた。純粋機械化やデジタル変革によって加速する功利的技術によって限界費用が限りなくゼロになるとき、有用性や稀少性という概念は真の意味で限界を迎え、古代経済の起源である破砕する要求に応じることに交換の意味が逆流するのかもしれない。これは元来経済が持っていた性質であり、古典的経済学が取り入れなかった概念であるとされる。生産性や経済成長が機械化によって幾何級数的な上昇を見せるとき、総需要の絶対的不足が資本主義社会を襲う。汎用人口知能が達成するシンギュラリティや経済的特異点は資本主義の終焉や労働の消滅を伴って、新たな経済パラダイムへと人々を誘っていくだろう。本内容は出版物やブログの内容を個人的理解のためにアーカイブしてまとめた備忘録である。

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目次

  • マネーの発明と市場経済
  • 資本主義の凋落と限界費用ゼロ
  • デジタル革命による経済的特異点の到来
  • 有用性の限界と破砕する要求

マネーの発明と市場経済

経済の基本的原則として『交換』の欲求が挙げられる。獲得に対する交換の欲求に対して貨幣は効率的に信用取引をおこないそれを清算する方法を提供した社会的なシステムであった。さらに時代を超えて唱えられてきた『貨幣は物々交換から発展してきた』という通説は近年で覆されていることを指摘した。[1]

マネーの本質と起源に関して古代からこの説得力のある説が唱えられてきた。サミュエルソンの『経済学』、古典的な政治哲学者であるジョン・ロックの『統治二論』、さらにはアダム・スミスの『国富論』における「通貨の起源と利用」の中に貨幣の物々交換仮説の記述があることは事実である。

「幅広く取引をするような社会では, 物々交換がはらむハンディキャップを到底克服できなかったために、広く一般に受け入れられる交換手 段である貨幣が現れてきた」 — サミュエルソン「経済学」

「不便を避けるために、分業が確立した後、自分の仕事で生産したもの以外に、他人が各自の生産物と交換するのを断らないと思える商品をある程度持っておく方法を取ったはずである。」 — アダム・スミス 「通貨の起源と利用」

この貨幣論は標準的な貨幣論として多くの人々の中で根付き、過去の様々な経済学の数理分析の基礎ともなっている。ところが1980年以降の研究においては、信頼できる情報が得られる過去に遡って、また現在の経済制度においても貨幣を使わない物々交換が主流であったことは1度もない、と言われている。ケンブリッジ大学の人類学者であるキャロライン・ハンフリーはこのように結論付けた。[2]

「物々交換から貨幣が生まれたという事例はもちろんのこと、純粋で単純な物々交換経済の事例さえ、どこにも記されていない。手に入れることができるすべての民族誌を見るかぎり、そうしたものはこれまでに1つもない」

また経済史家であるチャールズ・キンドルバーガーも著書の中で貨幣経済が物々交換経済から発展してきたという考えは間違っていると指摘している。財やサービスの授受における貨幣の交換は、マネーシステムにおける債権債務を移転し記録しておくためのフレームワークに過ぎない。ウィリアム・ヘンリー・ファーネスが発見し、マクロ経済学を確立させたジョン・メイナード・ケインズなどが着目したヤップ島の石貨『フェイ』は貨幣として交換されることはなく、その保有価値によって債権債務が移転および相殺されることが行われていた。物理的な石貨フェイそのものが交換されることはまれだったと言われている。ヤップ島の石貨『フェイ』のような貨幣だけでなく、人々は過去様々な形でマネーシステムを創造してきた。中世イングランドの『タリー』、アルゼンチンの『パタコン』など、歴史上登場した無数の例はマネーが社会的技術であることを物語っている。[3]

ヤップ島の石貨『フェイ』、中世イングランドの『タリー』、マネーの秩序が崩壊した歴史上の無数のエピソードに登場する銀行券、小切手、代用貨幣、私的な借用書、現代の銀行システムが使っている膨大な電子データ — これらはすべて、常に変動し続ける何兆という債権債務関係の残高を記録するための代用貨幣にすぎない

貨幣自体は財ではなくあくまで信用を表象するものであり、人為的に創造された信用を取り扱う社会的技術であると考えられる。財の中から貨幣が選ばれたのではなく、マネーシステムを構築するのに貨幣の導入が効果的だったからだ。ポスト・ケイジアンであるランダル・レイはさらに踏み込んで貨幣や市場経済が誕生する以前の種族社会における交換や供犠的な贈与にまで言及している。「種族間の交換、あるいは原始的な価値物の交換を通じる種族内の妻たちの購入は、物々交換ベースの市場交換の話を支持するために提供される。 それに対して交換手段としての子安貝の貝殻、あるいは巨大な石貨(ヤップ諸島)の使用は、古代の貨幣の起源を論証すると推測される。 しかしながら、これらの事例は市場と貨幣の起源についてのサミュエルソン仮説を支持しないのは明らかとなる」。さらに 「種族社会における交換は、本質的に儀式的なものであり、当然の結果として、互酬主義に基づく交換の習慣は、取引者の利益を最大にするよりはむしろ、種族の構成員をより親しく結びつけるように意図されたものであった。 実際、取引の参加者は通常、交換される品物の選択はまったくなく、そうした交換の多くの目的は、富を平等にすることであった。 相対的な諸価格は決して市場の競争の影響に晒されず、習慣によって決められた。」と続く。[4]

現代の人類学や比較歴史学の研究から部族社会における互酬主義に基づく交換の習慣として贈与分配が見られることが分かっている。贈与には返礼の義務が存在するため、義務的贈与が分配の原初的形態であると考えられるが、部族内での分配行為を効率よく行うためにマネーシステム並びに貨幣は発明されたのではないかと考えられる。なぜなら分配には価値の測定が必要になるからである。ここでいう価値とは部族社会において供犠的な意味で取引者を親しくさせるための価値の分配ではなく、価値に基づいて利益を正しく分配するための価値である。獲得した食料や生産した穀物、もしくは贈与された物品を分配する段階において社会に帰属する構成員へ正当な比率で分配行為を行う必要が発生した。価値単位が発明されることで価値の移転記録や、譲渡性といった他のマネーの性質が発芽する土壌が育まれる。

紀元前6世紀の時点で既にギリシャでは貨幣単位が使われていたことが分かっている。当時のギリシャ最大の信仰の拠点だったサモス島のヘラ神殿への献納を記録した碑文には、献納物が貨幣単位で記されていた。最古の硬貨は、リディアとイオニアで鋳造されたと言われているが、抽象的な価値単位としてマネーを使用し硬貨を活用したのは、古代ギリシャの都市国家だと言われている。紀元前6世紀末から紀元前480年頃までにかけてギリシャでは100ヵ所近い鋳造所が存在していた。マネーが使用されるようになると古代社会では伝統的で封建的な社会義務や官僚的な役務を普遍的な尺度で測ることができるようになり、古代ギリシャでは借地契約や給与などの対価だけでなく、その他の社会的支払いもすべて貨幣で支払われるようになっていたという。

マネーシステムはさらに画期的な地平を切り開いていった。抽象的な価値単位という尺度を用いて、取引者の債権債務を記録し、それを譲渡させることを可能とした。市場経済とは価格の持つ誘因機能を利用し、経済の成長・発展を目指す経済であり、特に獲得の要求に対して交換が発生する場合には、財やサービスに対する価格(厳密には価値)に相当するマネー(貨幣や証書など)を媒介物として提供しなければならない。マネーの持つ譲渡性という性質は交換の場所として機能する市場を形成し、市場経済を作り上げるために必要なピースであった。

貨幣はエネルギー量の評価を統一し、交換を促進する — 『 栄養の原則』ジョルジュ・バタイユ

市場経済では一般に自由な競争が行われ、需要や供給が適切に自動調整される。そのためには人々が共通の認識として価値を測量する単位が必要であることは明らかである。マネーシステムという社会的技術によって間接交換による市場経済は発展してきたと言えるだろう。ただしこの市場経済では、貨幣による財の交換を行わないということも選択できる、つまり財や貨幣という資本に備わっている貯蔵という性質である。近代において市場経済から資本主義経済が興隆してきた背景には、機械化による効率的な大量生産が可能となることで、消費のための生産から交換のための生産へという画期的な転換があったからだと考えられる。そのためには私有財産制への移行や市場経済の自由市場化が必要となってくる。

資本主義の凋落と限界費用ゼロ

近代の市場経済は古代の市場経済をベースとして私有財産制、分権化された経済主体、需給を均衡させるシステムによって成り立っている。第一次産業革命がイングランドをはじめ、ヨーロッパ各地に広まると、都市人口の拡大と、食料需要の増大をもたらした。土地の囲い込み運動によってヨーロッパでは土地は私有財産とし、労働力とともに市場で取引される経済的資源へと変化していった。封建的経済から私有財産制を中心とした市場経済への転換が完了するその前夜である。印刷技術というコミュニケーションにおける革命や、中世における水力や風力などの動力における技術発明は取引処理を効率化させ、より広域に拡大するための契約を書面で行うことを可能とした。

封建的社会から囲い込み運動によって土地が私有財産となったことによって不動産による商業的利益をその所有者が得られることと同様に、財やサービスを生産するための道具や技術を囲い込み蓄積するいわゆる資本家が台頭し、資本を稼働させることで利益を得ることが可能となった。織物業を営む製造業者は、水力や風力といった動力源や織物機械を所有することで、賃金労働者を集めていた。歴史家のモーリス・ドップはこの変化を次のように指摘している。[5]

資本に対する生産の従属と、資本家と生産者の間におけるこの階級関係の登場は、旧来の生産様式と新たな生産様式を隔てる、決定的分水嶺と見なされるべきである — 『資本主義発展の研究』モーリス・ドップ

消費のための生産から交換のための生産へと移行する中で、私有財産制に基づき資本家は土地やエネルギー・動力源、また生産のための機械を所有することで効率的な生産を可能としていったのだ。この現代の資本主義の萌芽をアダム・スミスは次のように表現した。[6]

あらゆる社会の労働によって毎年集められたり生産されたりするいっさいのもの、それはとりもなおさず、その総価格と同じことなのだが、それが本来、このような形で社会の異なる構成員に分配される。賃金と利益と地代は、すべての交換可能な価値の源泉であると同時に、本来、全収入の三つの源泉でもある。他の収入はみな、最終的にはこれら三つの源泉のいずれかに由来する。

資本主義の到来以降、蒸気機関による蒸気印刷や蒸気機関車、 石油による内燃機関と電気などの汎用目的技術(General Purpose Technology)が浸透するにつれて、大量の資本を投下し生産を効率化した垂直統合型の株式会社が多く現れるようになる。それまでの株式会社は世界的に数も少なく、遠征貿易のためのものだった。イギリス東インド会社もオランダ東インド会社も、国家公認の株式会社だった。株主のための経営者や取締役会の登場、管理職や階層型の大規模な組織と統制メカニズムはこのような垂直統合型の大規模企業から始まったのである。垂直統合型の企業は、バリューチェーン全体で、多くの中間業者を排除し、取引コストを大幅に減らしつつ生産性を大幅に向上することに成功した。つまり、垂直型企業は効率化の手法を多数導入し、規模の経済によって限界費用を減らし、さらに多くの大量生産の財を市場へ提供できるようにしたのだ。電気通信会社、自動車会社、石油会社などこれまでの産業革命における主要産業では、さらに中央集中化された指揮・統制が行われ莫大な資本支出がなされている。マネーシステムが経済的価値の測定を市場経済に持ち込み、財の貯蔵を可能としたことで、財や資本による資本主義経済が発展し、巨大企業は功利主義に基づいた効率的な大量生産を行ってきたことが明らかとなる。

ジョン・メイナード・ケインズやロバート・ハイルブローナーといった経済学者は、20世紀初頭既に資本主義の発展が孕んでいる矛盾について警鐘を鳴らし、新しいテクノロジーやイノベーションによって生産性が高められることによる、新たな局面について考慮していた。シカゴ大学教授だったオスカー・ランゲは競争市場における、資本主義が抱える矛盾について以下のように述べた。[7]

資本主義体制は、旧来の投資対象を保護するために経済の発展を止める試みと、そうした試みが失敗したときに起こる途方もない破綻の繰り返しによって揺らぎ、安定性を失う — オスカー・ランゲ

新たなイノベーションがもたらされ生産性が飛躍的に高まると、商品やサービスの価格は下がり、さらなる競争が煽られる。ところが既存の資本を投下した資本家は新たなイノベーションを防ぐ手立てを通常持っていない。新たな事業者は同じ商品をより効率的に低い価格で提供できるからだ。長期的に、資本主義経済では、新たなイノベーターが登場し、常にテクノロジーの発展による生産性の向上と、商品・サービス価格の低下を達成していく。文明評論家で『限界費用ゼロ社会』の著者であるジェレミー・リフキンは分散型、協働型の経済や既に一般的になりつつあるシェアリング・エコノミー(共有型経済)に着目し、資本主義の構造は生産性を最適状態まで押し上げ「限界費用」をほぼゼロへと導くことを示唆した。限界費用がほぼゼロとなる場合には、利益が生まれないゆえに資本市場で競争が成り立たない。資本を投下した資本家はその投資分からの利益が発生しないため、資本市場で投資をする意味がなくなってしまう。資本主義経済でこれまでは財やサービスとして販売されていたものの限界費用がゼロに近づくにつれ、資本主義経済が取り扱える市場経済は、経済全体における辺縁部で生きていかざるを得なくなるだろう、と。

インターネットを介してより多くの情報や価値がほぼゼロのコストで人々に行き渡るにつれ、市場経済における需要は減少していく可能性がある。なぜなら市場経済は価格の持つ誘因機能で成り立っているからだ。ジェレミー・リフキンは情報財は特に限界費用ゼロに近いことを取り上げ、すでにインターネット上で音楽や動画、ブログ、ソーシャルメディア、電子書籍、3Dプリントした製品、その他の財やサービスを、限界費用ほぼゼロで提供している人々がいることを指摘する。再生可能エネルギーを生産するプロシューマ―や、製造業における3Dプリンティングの活用、MOOCなどのオンライン教育を始めとし、あらゆるビジネスにおいてテクノロジーによる生産性の向上によって生産コストと、それを流通させる社会的コストはゼロに近づいている。限界費用がゼロへ近づくと、利益が消滅し、所有権が意味を失うと市場は不要となる。なぜならほぼ無料の財やサービスの交換にはマネーシステムを使用する必要がないからだ。人々に必要な交換は分散型のネットワーク上で個別具体的に行うことが可能となる。そこでは抽象的な価値単位の意味も薄れている。

新たなイノベーションがインターネット上であらゆる人とモノ、情報をを結びつけるグローバルなネットワークを形成し、生産性が飛躍的に高まると、財やサービスがほぼ無料になる時代に向かって加速的に進んでいくことになる。情報処理のコモディティ化、ビッグデータの供給、ブロックチェーンによる分散化、IoTによるリアルタイムなセンサーデータの提供と再生可能エネルギーの発展といった新たなイノベーションが分散型・協働型の共有経済を可能にしていく。世界にみられる長期的な経済停滞について、エコノミストは、高いエネルギーコストや人口動態、労働人口の伸び悩み、消費者と政府の負債、富裕層が持つ富の増大などを指摘するが、限界費用がゼロに近づき、シェアリングエコノミーが拡大する中ではGDPは損失され、市場資本よりも社会関係資本の集積が拡大していくだろう。

価格の下落と選択肢の拡大はやがて、不動産、食品、エネルギーへも広がっていくはずだが、イノベーションはまだ、生きるために必要なものが無料で手に入るには至っていないと考えるだろうか。例えばマルツィン・ヤクボフスキは、持続可能で人並みの暮らしを生み出すための機械を50種類突き止め、その機械すべてを作成できるソフトウェアをオープンソースで提供しすることを目標としている。供給原料は近隣から無料で手に入るものと限定し、既に複数の機械についてオープンソースでソフトウェアを提供している。再生可能エネルギーとスマートなマイクロ送電網がそれらの機械を動かす動力源となる。住居はどうだろうか。家具や建物の3Dプリントについては現実のものとなっており、2016年にはドバイで3Dプリンティングによるオフィスが建築され話題となった。[8]

衣食住など生活に必要となる財の分野においてもイノベーションの進展によって、その限界費用や流通させる社会的コストは無料へと近づいていく。資本主義において絶えざるイノベーションが生産性を極限まで高めたとき、人間生活のあらゆる財やサービスはほぼ無料で提供され、市場経済では財・サービスの購入がほぼ不要となる。そこで資本主義において投下した資本から得られる利益は枯渇し、経済学者が「最適一般福祉」と一般的に呼ぶ状態に達するかもしれない。この状態は経済効率が最大化されている状態であり、資本主義の最終到達点であるのだが、資本からの利益は枯渇し、この地点へ到達すると同時に資本主義の終焉を結果的に招くことになる。労働や人間生活における要素を経済的価値という単位で測定し、貨幣単位へと変換する耐性の強さははるか昔から広く認識されている。だが資本主義の凋落によって市場の立場は揺らぎ、抽象的な経済的価値という単位はその意味を失っていくかもしれない。

資本主義は、人間生活のあらゆる面を経済の舞台に上げるためにある。その舞台では、人間生活は商品と化し、財として市場で交換される。人間の営みのうち、この転換を免れたものは皆無に近い — ジェレミー・リフキン

財やサービスが無料へと近づき、市場が消滅していく社会では、分散型・協働型の交換が中心となり、労働市場における労働も無料へと近づいていくだろう。なぜなら資本市場において経済的利得が発生しないからだ。労働は資本主義市場から撤退を余儀なくされる。労働はいままで私たちが考えているような在り方では存在しないだろう。さらにビッグデータ、高度なアルゴリズムや人口知能(AI)による自動化や省力化は、限界費用の逓減だけでなく労働の消滅も招いている。

デジタル革命と経済的特異点

コンピュータの時代はこれまで蒸気や電気のような汎用目的技術(General Purpose Technology)が達成した経済的、社会的変化をもたらしてはこなかった。1965年にゴードン・ムーアがムーアの法則の予測を行ってから50年間、歴史の中でこの時期はタイラー・コーエンが『大停滞』と名付けた時代にあたる。ノーベル賞経済学者ロバート・ソローは1987年の論文で、コンピュータ革命の兆しはまったく見えないと考察していた。新しいテクノロジーの漸進には時差がある。例えば工業化に伴って社会全般で起きた変化(人口の都市集中、教育の普及、国家の規模と役割や政権の変化)は、テクノロジーの変化による波及効果と単純にいえるものではない。むしろそれは新しいテクノロジーが秘めた生産性向上や効率化の可能性を実現するために社会が進化した姿なのだ。イノベーションの登場から、生産性の向上が数字に表れたり、目立って変化が起きたりするまでの間には時差が生じる。新しいテクノロジーへの投資からその投資による生産性の向上が数値に表れるまでには、ディフュージョン(拡散)の時間がかかると言われている。いまコンピュータによる産業革命は大停滞の時期を経て、まさにデジタル革命として社会の形を進化させ続けている。

新しいテクノロジーは破壊的ではあるが、生産性を上げることで価格を下げ、消費を刺激して、増産や労働の需要を刺激すると考えられてきた。過去200年間は、人と企業が新しいテクノロジーを開発し、そのたびに古いテクノロジーに従事してきた労働者が不要になることの繰り返しだった。ジョン・メイナード・ケインズが技術的失業と呼んだ現象である。歴史を振り返ると、技術的失業に陥った低スキル労働者を生産性の高い仕事に移動させ、それ以外の多数の労働者には教育を受けさせて高スキル労働者の需要の伸びに対応するという形を取っていた。ところが、デジタル革命においては、労働者が余剰となり、その労働者をスキルの高低に関係なく、生産性の高い仕事に移行させる方法が少なくなっている。産業革命のころは衰退する産業から成長産業や仕事に労働者が再配分される仕組みは労働市場でうまくいった。産業革命期における織物工場では、織物職人は織物機を操作するオペレータとなることで労働の需要を満たした。織物の需要が増えていたために、ある生産量において生産に必要な人員は少なくなっていても、市場全体としては織物職人が機械の操作さえ習得すれば労働の移行には問題がなかった。だが今回のケースでは、産業革命の織物職人が減少したときのように労働の再配分はうまくゆかない可能性が高い。いま世界中で起きていることは、労働の移行ではなく、イノベーションの破壊的プロセスによって人間の労働自体を消失させる企みだからだ。例えばUberはタクシー運転手が行う乗客探し、ルートの判断、支払い処理といった業務をすべてアプリに担当させ、運転手をタクシーの操作要員にすることに成功した。従来タクシー運転手は、地理の把握や顧客の発見についてのスキルが必要であったが、Uberはタクシー運転という機能だけを人に担当させ、他の要素すべてを自動化したのである。この情報処理による労働の非スキル化によってさらに人の労働の置き換えは容易となる。タクシー運転という機能は近い将来 MaaS(Mobility as a Service)で置き換え可能となるだろう。自動運転が法律的に認可されれば、Uberとタクシーをインターネット経由でAPI接続し、回遊する自動タクシーをアプリから配車するだけでタクシーサービスを利用できるようになる。ロボットと人口知能(AI)の分野の進展によって労働自体が自動化・省力化され消滅しつつあることは以下の理由から自明である。

  • ロボットや人口知能(AI)は労働自体を置き換える可能性があるため労働に対する需要が消失する可能性がある(需要が現に消失している)
  • 高い生産性をもたらすIT・ロボティクスやAIの知識的技術レベルは既存の産業の労働者が容易に到達できるものではない

さらに注目したいのは、Uberの例のようにある産業で業務の単純化を行ってしまうと、それを自動化することやロボットで置き換えることにさらに拍車がかかることだ。

テクノロジーによって全産業がIT化とサービス産業化する中で、労働集約から知識集約型へと労働の質が変化してきた。いまでは企業活動のほぼすべてを情報処理技術で賄うことができるようになってきている。顧客管理、会計、人事はERP、RPAの利用やサブスクリプションのSaaSサービスを利用してもよいし、もし仮にうまく自動化できなければアウトソースすれば良いだけだ。製造と物流もまた人手でなはく、以前にも増して機械が行うようになっている。製造部門で、テクノロジーが原因の人員削減が現在の割合で続くと、2003年に1億6300万人いた工場労働者は、2040年には数百万人にまで減少するという。[9]

Amazonは、労働の限界費用をできるだけゼロに近づけることを目標とし、自社倉庫に自立走行型無人搬送車、自動ロボット、自動倉庫システムを配備して、ロジスティクスから人手の作業を排除し、バリューチェーンのあらゆる段階で効率化・省力化を行っている。自動化やロボット、人口知能(AI)は、これまでブルーカラーの製造部門やロジスティクスだけでなく、ホワイトカラーやサービス業においても急速に労働力を削減している。人事、財務、購買部門などの企業バックオフィスだけでなく、医療や法律などのプロフェッショナルサービスも例外ではない。自動化やロボット化の波は指数関数的な伸びで、労働者の労働を置き換えている。これまでソフトウェアやロボットなどを管理する労働は人間が担ってきた。ところが近年では人口知能(AI)やオートメーション技術が、ソフトウェアやロボットの管理自体の労働も担っている。テクノロジーの進展によって多くの作業を機械に移すことが可能となり、自動化と省力化を行うことで企業は自立分散的に動作するソフトウェアのようになる。現代の企業は情報処理システムと言っても過言ではない。ブロックチェーンにはDAO(Decentralized Autonomous Organization)と呼ばれるプロジェクトがある。ブロックチェーンの分散型ネットワークとスマートコントラクトの執行を利用して、会社などの組織をすべてソフトウェアで実現しようとする取り組みである。企業の部門はすべてプログラムの表現に置きかられ、実際の運用や運営は人口知能(AI)が行うことが可能となる。DAOを実践するプロジェクトの1つにコロニー(Colony)がある。コロニーは、クラウドソーシングの会社で、フリーランスで働く人々がプロジェクトごとに直接協働できるプラットフォームで、提案と投票により意思決定を行い、貢献度に応じて参加者を評価する。コロニーは自らを「21世紀型の会社(Company for the 21st Century)」と呼んでいる。[10]

21世紀の早い段階でビッグデータ、ブロックチェーン、IoT、人口知能(AI)、ロボット工学などが、各種製造業、サービス業、知識・娯楽部門などのほぼ全ての産業で労働者にとって代わり、市場経済における仕事から何億もの労働者を解放するだろう。「大失業時代」「機械との競争」「人口知能と経済の未来」で警鐘を鳴らされた世界は実現しつつある。生産する機械が労働を奪っていくだけでなく、資本が労働そのものになっているのだ。若年層にYoutuberや社会起業家になる人が多いことは、既に従来の労働から解放され、市場経済時代の労働様式と取り合わない、社会関係資本やソーシャルエコノミーを重視した、新たなパラダイムの中で生きる人々の存在を物語っている。市場経済において有効であった大量雇用や終身雇用は過去のものである。

資本主義経済においてロボットや人口知能(AI)が人の労働を置き換えることで、結果として資本(ロボットやAI)がさらなる資本を生み出す構造が発生しつつある。資本は労働から生み出されるのではなく、資本が労働そのものへと向かっているのだ。井上智洋は、その著書『人口知能と経済の未来』の中で、2030年から2045年には先進的な汎用人口知能(汎用AI)が発展し、人間に残される仕事はクリエイティブな仕事の一部などわずかであろうと予測している。汎用人工知能(汎用AI)とは、人間に可能な知的な振舞いを1通りこなすことのできるAIであり、課題や目的設定に応じて適切な回答を導き出すことができる機械である。人間の持つ汎用知能 のように十分に広範な適用範囲と強力な汎化能力を持つ人工知能と定義される。蒸気や電気のような汎用目的技術(General Purpose Technology)によって果実は食べ尽くされたと言われてきた。第3次産業革命においては、2030年頃を生産性の上昇や経済的な成長が拡散するディフュージョンのピークポイントと予想できるだろう。2030年までを現在の特化型AIによる特定業務の自動化や省力化の時代とすると、2030以降は、枯渇しつつあるイノベーションが汎用型AIにより幾何級数的に発生していく汎用型AIの時代となる。日本では経済産業省が第4次産業革命の開始時期を2030年としていることも興味深い。特に汎用AIを搭載したロボットや機械は、その問題設定や解決能力が人間と同等と言われており、人間のほぼすべての労働を代替していく。生産活動はこの機械による労働のみが関与するので、限界生産力は逓減せず、この生産によりさらに機械を作り出していくことができる。機械が生産の手段から、生産の主力、生産そのものへと成っていくだろう。資本主義が機械化経済であるとすると、第4次産業革命は純粋機械化経済であると呼ばれている。[11]

アダム・スミスは『国富論』において、市場は重力の法則のような形で稼働すると断定した。市場においては需要と供給が均衡を保ち、財やそれに対する消費者の需要が高まれば、売り手はそれに応じて価格を上げる。価格が高くなれば、需要が落ち込み、売り手は価格を下げざるを得なくなる。古典派経済学者であるジャン・バティスト・セイは、経済活動は持続可能であるとして、製品が生み出されるとその価値の限度まで他の製品の市場を創造する、と推論した。これらは市場経済の不均衡を調整するためのメカニズムとして有名であるが、あくまで競争市場を基礎としており、市場の調整が起きえないほどに供給が増えることについては考えられていない。つまり生産性や経済成長が指数関数的に伸びていく純粋機械化経済のような世界では総需要の絶対的不足が発生する可能性が高い。そもそも労働が消滅し、労働者が利益を得られない世界では労働者は財を購入することができない(最も限界費用がほぼゼロであれば、財・サービスを購入する必要はないのだが)。したがって市場の供給に対して需要が常に不足していくだろう。純粋機械化経済では、資本分配率が上昇し(トマ・ピケティの『21世紀の資本』でも示された)、労働分配率が低下していくため、資本主義的な経済成長も当然頭打ちとなる。金融政策や財政政策は従来の資本主義経済の中では有効であった。限界費用がゼロに近づくことによって実質コストが無料のものが溢れると、総需要の絶対的不足は顕著となる。限界費用ほぼゼロによって労働による利益が枯渇することと、純粋機械化経済による供給過剰で需要の絶対的不足によって、資本分配率が生産に応じて上昇しないことから資本主義の未来は暗いと言わざるを得ない。

シンギュラリティとは、もとは数学や物理学の用語であり、物理学では物理法則(一般相対性理論)が通用しない特異な点のことである。いま継続しているデジタル革命やそれに続く第4次産業革命による純粋機械化経済は、人類に多大な影響を与え、後戻りできない不可逆な経済的特異点へと誘っていくだろう。社会と経済は激震に見舞われる。その震度はこれまでの産業革命よりも遥かに大きい。

有用性の限界と破砕する要求

資本主義は隷属的で機械的な動物を作り出してきた。利用への従属、生産のための器具、生産量や効率化でしか測られることのない価値体系。人は社会の中で機能と化してきた。マネーという社会的技術と抽象的な価値単位が実現してから、人々はこの魔力に取りつかれてきたことを歴史が証明している。前述した2500年ほど前の古代ギリシャに続き、古代ローマでは「リテラ」(約束手形)や「ノミナ」(証文)といった信用経済も既に発展していた。詩人のオウィディウスは恋人向けの指南書で、恋の相手を射止めるためには女性に贈り物をしなければいけないが、払う現金がないとしても、つけ買いの証文を書いてくれと要求されるだろうと忠告している。[12]

マネーシステムは他者との関係に大きく依存する社会的技術である。しかし、豊かで多様な人間関係の生態系を金銭的関係という機械的で単調な仕掛け、功利的な思考へと変えることで、他者との人間的な関係を断ち切る技術でもあるのだ。哲学者であるマイケル・サンデルは、その著書『それをお金で買いますか — 市場主義の限界』において売買の論理が使用価値に対するものだけでなく社会全体を支配するようになっていると問いかけた。しかしこれは、遥か古代のギリシャから既に問い続けられてきた問いなのだ。抽象的な価値単位を持つマネー、生産性の概念の拡張、そして市場経済や資本主義経済によって稀少性や有用性を物事の基底とすることが人々の思考習慣となった。有用性や稀少性、またそれらの価値によって人や物を評価する耐性は現代では驚くほど強い。

何も役にも立たないものは、価値のない卑しいものとみなされる。しかしわたしたちに役立つものとは、手段にすぎないものだ。有用性は獲得にかかわる — 製品の増大か、製品を製造する手段の増大にかかわるのである。 — 『 栄養の原則』ジョルジュ・バタイユ

現代的な資本主義の下では、資本の多産性という暴力によって人や人の生活部品は有用かどうかのみで判断される。すると人は相対する人物や物を無意識のうちに色眼鏡でみるようになる。果たしてこれは有用か、稀少なのかという問いが自然と頭を擡げてくるのである。古代ギリシャ人はこの危険に気が付いていた。マネーシステムや市場経済というものをよく知らなかったたがために、危機を察知することができたのだ。魚は自らが水の中を泳いでいることを意識しない。それは環境に溶け込んでいるからだ。現代においてマネーや資本は私たちに当たり前であるが故に、マネーや資本のない世界を容易に想像できないのだ。

人間が有用性の原則の前に屈するようになると、人間は結局貧しくなる。獲得する必要性、この貪婪さが、人間の目的となる。人間の巨大な活動の終局であり、目的になってしまう。もはや悲惨のことしか考えられなくなり、なんとしてでもこの悲惨な状態を緩和しなければならないのだ。憂鬱さと、灰色の日々が目の前に広がる。人間には絶滅の力が与えられたのである。 — 『 人間の位置の惨めさ』ジョルジュ・バタイユ

限界費用がゼロに近づき、純粋機械化経済の到着する潤沢性の世界では、抽象的な価値単位を測定する必要性が希薄化していく。使用価値や、交換価値として交換のために機能する貨幣やマネーシステムは、ほぼ破綻していくだろう。純粋機械化経済の発展した資本市場においてマネーは増殖し続けるが、その取り分はすべて資本家のものとなる、しかし機械が機械を多産していくことで生産性や経済成長は幾何級数的な上昇となり、総需要の絶対的不足が生じている。したがって資本市場は経済の中のほんの一部分となり、資本主義市場は経済界の辺縁部で生きていかざるを得なくなるだろう。限界費用がゼロへと近づいているために、この総需要を金融政策や財政政策のような貨幣現象で刺激することはできない(例えばベーシックインカム、減価する貨幣は無効、負の消費税はわずかな資本家に対して効果的)。市場経済は価格の持つ誘因機能によって成り立つことを述べた。それは獲得する必要性という通奏低音が社会通念として流れているから成り立つのだが、抽象的な価値単位である価値の意味が、獲得するという意味において崩壊すると、すなわち獲得する欲求が社会で希釈すると、『交換』における分配の意味が変容することになる。

ここに有用性や稀少性が限界を迎え、無用性・潤沢性の社会の萌芽をみることができる。経済の基本的原則として『交換』の欲求が挙げられることを述べた。しかし交換とは獲得に対する欲求から生まれるものだけではない。『交換』によって価値あるものを破砕し、浪費する欲求が有用性・稀少性が希釈した世界では基底となる。なぜなら古代的な交換の形式では、浪費が生産よりも上位に置かれていることが知られているからだ。

経済の起源において、交換のような取得方式は、獲得の要求に応じるのではなく、反対に喪失し、破砕する要求に応じたものだった。 — 『 空虚な栄誉の経済』ジョルジュ・バタイユ

人は現代とは逆の意味の交換を古代に行っていたことになる。浪費は元来経済が持っていた性質であり、古典的経済学が取り入れなかった概念であるとされている。交換の習慣として贈与分配が見られるが、贈与には多くの場合返礼の義務が存在するため、義務的贈与が分配の原初的形態であるということを述べた。したがってこの無用性・潤沢性の社会の経済において破砕する要求に応じる交換の動機が再興する可能性があるのである。20世紀の思想家ジョルジュ・バタイユは、その著書『呪われた部分 — 有用性の限界』で、ポトラッチと民俗学者が呼ぶ逆説的な交換システムを取り上げた。ポトラッチの意味は喪失による栄誉や至高の効果であるとされ、どの社会においても、多かれ少なかれ明瞭な形で、このポトラッチの痕跡が発見されるという。[12]

獲得は、手に入れたものを失うことを「目的」としている。喪失が生という意味をもっていること、閉じた富裕化のシステムが不毛なものとなったときには、喪失が豊穣なものとなることが多いのはたしかだ。 — 『 栄誉ある浪費』ジョルジュ・バタイユ

この破砕の社会において、現代における財の使用価値や貨幣による交換価値は意味をなさない。喪失することに価値が与えられるのである。また喪失することを前提とすることは、時間価値やその残存時間のもたらす有用性や稀少性をも価値から排除することを意味する。ジョルジュ・バタイユの指摘するとおり、喪失は逆説的に生を表象している。哲学者のボードリヤールは、社会と人との関係を、社会からの延期された死という贈与に対する返礼と捉えていた。社会関係のシステム中で、社会から破砕する要求を突き付けられた場合、延期された死もしくは直接的な死という喪失によって人は価値交換する。ここでの死は生物的な死だけを意味するわけではないが、文字通り捉えたとしても、生とは喪失であるから、死による価値付与という返礼は、無用性・潤沢性における価値体系において、象徴的に成立した構造だと考えられる。

ジョン・メイナード・ケインズは「技術的失業」に次のような言葉を添えた。技術的失業は、短期的には人々を苦しめるものの、「人類が自らの経済の問題を解決していること」を意味するから、長期的には大いなる恩恵である、と。

経済的必要が満たされ、さらなる精力を経済以外の目的へ傾けたくなるときが、まもなく、ことによると私たち全員が思っているよりもずっと早く、到来するかもしれない — ジョン・メイナード・ケインズ

ケインズは未来についてこうも語っている。

われわれはもう一度手段より目的を高く評価し、効用よりも善を選ぶことになる。われわれはこの時間、この一日で上手な過ごし方を教示してくれることができる人、物事のなかに直接の喜びを見出すことが出来る人、汗して働くことも紡ぐこともしない野の百合のような人を、尊敬するようになる。

時代の背景にある思考習慣は累積的な結果と循環的な作用を伴って変化し定着していくが、固定化はされず常に変化する性質を持っていることもまた事実である。獲得する必要性が希釈していく無用性・潤沢性の社会において、交換の動機は浪費し破砕するという思考習慣へ逆流し、使用価値や交換価値ではない新たな価値による経済パラダイムへの転換が見込まれる。リオタールは80年代に大きな物語が終焉した時代として、ポストモダンという概念を提唱したが、これから起きる未曾有の思考習慣の転換はポストモダンのさらに先へと人類を誘っていくだろう。

真の幸福と満足は欲求の拡大ではなく、意図的・自発的な削減にある — マハトマ・ガンディー

まとめ

  • 人類学や比較歴史学の研究から部族社会における互酬主義に基づく交換の習慣として贈与分配が見られることが分かっている
  • 分配を可能とするために抽象的な価値単位が必要になる、この価値は部族内で利益を正しく分配するための価値であり、使用価値とも異なる
  • 産業革命においては消費のための生産から交換のための生産へと移行することで、資本家は土地やエネルギー・動力源、また生産のための機械を所有することで効率的な生産を可能としていった
  • 限界費用がゼロに近づくと、マネーによる財の交換は不要となるために市場経済は縮小していく可能性がある、利益が消滅することで労働に対する対価もゼロへと近づく
  • 資本主義の終焉後には分散型で協働型で社会関係資本やソーシャルエコノミーを基礎とした経済が台頭することが考えられる、使用価値や交換価値は限界を迎える
  • ロボティクスや人口知能(AI)が自動化と省力化を推し進め、ほぼ全ての産業や職種で労働の消滅が始まっている、工場やロジスティクスだけでなく知識労働についても今後さらに顕著となる
  • 特化型AIから汎用型AIへと技術発展することで、機械が機械を生み出す純粋機械化経済が到来する、生産性や経済成長が指数関数的に上昇する世界が訪れる
  • 有用性や稀少性に対する価値は、限界費用ほぼゼロや純粋機械化経済によって風前の灯となり、無用性や潤沢性という概念が重要になる
  • 抽象的な価値単位である価値の意味が、獲得するという意味において崩壊すると、すなわち獲得する欲求が社会で希薄化すると、『交換』における分配の意味が変容する
  • 古代の経済のポトラッチのような破砕する要求に応じる交換の動機が無用性・潤沢性の社会の経済において再興する

Reference

  • [1] Yuya Sugano — 非中央集権と東洋的思想
  • [2] Humphrey, C. “Barter and Economic Disintegration”, 1985
  • [3] フェリックス・マーティン — 『21世紀の貨幣論』遠藤真美訳
  • [4] 古川顕 — 貨幣の起源と貨幣の未来
  • [5] モーリス・ドップ— 『資本主義発展の研究 一・二』京大近代史研究会訳
  • [6] アダム・スミス — 『国富論 一~四』大河内一男監訳、玉野井芳郎・田添京二・大河内暁男訳
  • [7] Oskar Lange, “On the Economic Theory of Socialism: Part Two”, 1937
  • [8] World’s first 3D-printed office building completed in Dubai
  • [9] Joseph G. Carson, “US Economic and Investment Perspectives — Manufacturing Payrolls Declining Globally: The Untold Story (Part 2)”, 2003
  • [10] Colony, Organizations for the Internet
  • [11] 井上智洋 — 人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊
  • [12] ジョルジュ・バタイユ — 『呪われた部分 有用性の限界』中山元訳

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Yuya Sugano

Cloud Architect and Blockchain Enthusiast, techflare.blog, Vinyl DJ, Backpacker. ブロックチェーン・クラウド(AWS/Azure)関連の記事をパブリッシュ。バックパッカーとしてユーラシア大陸を陸路横断するなど旅が趣味。