最後の貸手とガバナンス

Yuya Sugano
24 min readSep 7, 2019

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ホートレーが「中央銀行の技術」と呼んだものが、最後の貸手という概念を発展させてきた。この言葉はフランス語の「終審」(Dernier Ressort)つまりそれ以上の上告はできない司法機関を表す用語に由来している。本稿では金融危機の際の対応と最後の貸手の存在、その系譜とガバナンスについて考察してみたい。 書籍などで既に指摘されている点も多いが重複や内容の至らぬ点はご容赦願いたい。

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イングランドの歳入を補うため(名誉革命後にイギリス国王に推戴されたオランダ総督のウィリアム3世は、国王に即位すると、アウグスブルグ同盟に参加しフランスとの戦争を始めた)、公営銀行である『イングランド銀行』を設立したことが中央銀行の先駆けであることを述べた。[1]

『イングランド銀行に銀行券を発券する権利を与えること』

イングランド銀行が国家財政の再建と国王の信用回復を援助する代わりに、 国家の信用を持つプライベートマネーを公営銀行が発行することを許可したのである。1694年にイングランドでソブリンマネーとプライベートマネーが融合されたことが、現代のマネーの基礎となってきた。

最後の貸手

2007年、サブプライムという低所得者向けのローンによる金融不安が発生し、イギリスのノーザン・ロック銀行で取り付け騒ぎが発生した。ホールセールでの短期資金が調達できなくなり、預金者が一斉にお金を引き揚げ始めたのだ。銀行の破綻は巨大な金融ネットワークにおいて甚大な影響を与え、債務を発行した銀行だけでなく、取引する他銀行の倒産や地域経済への打撃などシステミック・リスクが顕在化する。この場合には銀行が流動性危機に陥らないようにすることが肝心で、有事の際に中央銀行が『最後の貸手』として流動性の不足を解消することが現代の標準的な金融危機対策となっている。

Wall street in New York

ノーザン・ロック銀行の取り付け騒ぎでは、数日で預金全体にあたる8%が(20億ポンド)が引き出され、イングランド銀行は流動性支援を行うことを決定した。債権保有者や預金者から支払い請求があった場合、銀行は中央銀行から資金供与を受け、払い戻しができるようにする。債券保有者や預金者は銀行に対する請求権の代わりに中央銀行に対する請求権を得る。つまり中央銀行の流動性債務へと付け替えられることでリスクを移動することができた。ところが数か月後、ノーザン・ロック銀行の問題は、単なる流動性不足ではないことが明らかになる。[2]

ノーザン・ロックの融資の多くが焦げ付いていたのだ。自己資本は毀損され、株価は大幅に下落していた。ノーザン・ロックは流動性不足だけでなく信用性不足にも陥っていたのである。この場合、資産と負債の溝を埋めるためには追加資本を注入して、自己資本がさらに減少する事態に備える必要がある。事態を重くみたイングランド銀行と政府は次の救済プランをすぐに用意する。

イギリス大蔵省は2008年2月にノーザン・ロックの株式を取得し国有化した。イングランド銀行と政府は流動性リスクだけでなく信用リスクをも中央機関へ移転したということである。本来であればノーザン・ロックの債権保有者が被るはずであったリスクを、政府が資本を注入することで、納税者が被ることとなったのだ。海を越えたアメリカでは2008年9月、 FRB(米連邦準備理事会)が 米国保険最大手のAIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)を国有化するにあたって850億ドルもの資金供給を決めた。

これ以来、中央銀行や政府は流動性支援だけでなく、信用損失の補填も行うモラルハザードを犯すようになっていった。最後の貸手が介入するとき最終的にその負担は納税者が行うことになっていたのだ。2007年から2012年にかけて、25か国が深刻な金融危機に見舞われ、そのうちの3分の2の国が銀行への信用支援に踏み切ったという。[3]

囚人のジレンマ

最後の貸手は経済学者の理論として出現したものではなく、窮すれば通ずの精神から自然と生まれ出たものであるようだ。E・V・モルガンは、1793年、1793年、1799年、1811年に政府が大蔵省証券(つまり政府の証書)を発行したことが、イングランド銀行の責任の自覚を遅らせたものの、イングランド銀行は19世紀前半になってから最後の貸手として徐々にその役割を引き受けるようになったと言っている。イングランド銀行が中央銀行となってからもイギリスに最後の貸手についての規定は長らく存在せず、1890年のベアリング商会の清算のときでさえ、保証基金を設立して対応している。[4]

『恐慌は、商業および金融の環境を浄化し、活力と健康を回復させると共に、規律ある取引、健全な進歩、繁栄の永続に貢献する』

ベアリング商会の債務保証は1844年の銀行条例の停止を許可する政府の損害補償契約書の代案として行われた。イングランド銀行総裁であったリダデイル卿は、政府補填を拒否し、11の民間銀行との協定からベアリング協会の負債を保証する基金に拠出させる協定を結び、この危機を救った。新オーストリア派のように自由市場無政府主義を掲げ、政府や中央銀行による介入は本質的に不要であるとする意見もある。マレー・ロスバードは政府しいては中央銀行による通貨の流通は有害で、過度の信用拡大は資本資源の誤配分を招き、維持不能なバブル経済ならびに恐慌の引き金となると考えていた。だが現実として危機が放置されておくことはない。中央銀行となったイングランド銀行だけでなく、手形交換所、銀行間の協力、またはベアリング商会のときの保証基金など様々な手段を講じて市場は解決策を探りだしてきたのだ。

ニューヨーク手形交換所は1853年に設立されている。連邦準備制度が確立される前のアメリカでは手形交換所の発行する証書を用いる方策が取られていた。しかし有効性が地域的で局地的であったことや、支払い準備金のプールが必要であったことから次第に下火となり、1934年以降は、アメリカでは連邦預金保険公社(FDIC)が事前に預金の支払い保証をすることで、銀行取付が広がることを防止するようになった。保証限度額は法案で決定されていたが、1984年のコンチネンタル・イリノイ銀行の救済や、1988年のファースト・リパブリックバンクの救済の際に、取付を至急食い止めるため、限度額を超えて預金を保証し、10万ドル以上の預金を大量に受け入れている銀行は、『大きすぎて潰せない』(Too big to fail)という事実上のルールを作ってしまった。[5]

1827年12月、フランスのミュールーズで繊維会社が3社倒産した。これをきっかけにアルザス所在の会社の手形の割引がパリの銀行で拒否されるようになり、さらに2つの会社が倒産した。この恐慌のケースでは、パリの26の銀行から成るシンジケートが500万フランを供与することでアルザスでの信頼を回復した。1857年のハンブルクの危機では、対米貿易に携わっていた会社の倒産をきっかけに、500万マルクに値する州政府債の発行と、1000万マルクに相当する外国からの銀借り入れ(銀本位制を取っていた)の計1500万マルクを資金として公営貸付機関を設けるという折衷案が取られた。このときの銀列車(シルバーツーク)の話は、国際的な最後の貸手の機能として有名である。

1999年9月に行われたヘッジファンドLTCMの危機の場合は、メリルリンチ、モルガン・スタンレー・ディーン・ウィッター、J・P・モルガン、チェース・マンハッタン銀行、スイス・ユニオン銀行など14の大手金融機関を集めて、LTCMの破綻を防ぐため36億ドルを出資し、株式の90%を取得するように要請した。

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1825年のイングランドの恐慌は戦争などの外部要因に起因しない、最初の現代的な恐慌だと言われている。1802年にヘンリー・ソーントンが最後の貸手の取るべき行動を説いていたにもかかわらず、イングランド銀行は割引率を引き上げ、市中銀行の倒産を招いた。[6]

1866年のオーバーレンド・ガーニー商会の危機などを通じて、最後の貸手の役割はイングランド銀行へと徐々に移転し、イングランド銀行の理事会が、国内においても海外においてもイギリス経済全体に安定をもたらす委員会だと見られるようになってきたという。フランスでは、1803年に設立されたフランス銀行が、危機の際には責任を負担することを1830年代に認めているが、まだ銀行券発行の独占はしていなかった。

Bank of England’s actions of rapidly increasing the money supply, then rapidly tightening it, initiating bank runs and finally refusing to act as lender of last resort until too late

中央銀行は恐慌を阻止するために、危機の際には貸し出すという措置を取る必要があるが、将来の恐慌を予防するためには市場や人々が規律を働かせて恐慌を発生し得ないようにするという態度を取らねばならない。最後の貸手の支援があることを市場が知っていると、銀行経営や恐慌を起こすまいとする人々の責任を弱めてしまう可能性がある。最後の貸手機能というのは常に人々の問題に帰結するのである。

銀列車(シルバーツーク)

大航海時代や産業革命を通じて、国際的な商業信用や銀行信用が拡大してきた。国内の金融の逼迫、商品や証券の値上がりと値下がり、短資の移動、金利変動、金融政策・財政政策などを起因として恐慌は国際的に伝染する。

1857年のハンブルクで、500万マルクに値する州政府債の発行と、1000万マルクに相当する外国からの銀借り入れの計1500万マルクが資金として調達されたことを述べた。オハイオからリヴァプールへ、さらにヨーロッパへと拡大した危機が3か月後にハンブルクを襲い、対米貿易に携わっていたウィンターホーフ&バイパー商会が支払い停止に陥った。借り入れの要請は、ロンドンのロスチャイルド商会、ベアリング商会、パリのフール商会、アムステルダム、コペンハーゲン、ブリュッセル、ベルリン、ドレスデンなど様々な国の団体や金融機関に対して行われた。最終的にウィーンが借り入れ要望額のすべてを引き受け、銀を積んだ列車(シルバーツーク)が街を祝勝パレードのように巡回するだけで恐慌は鎮静したという。

Silver Coins

1931年のデフレーションは、それまでの場合とは規模も質も異なる形の国際的な最後の貸手の必要性を明らかにした。ホートレーは分析の中で『国際的な最後の貸手の必要が高まっている。いつの日か、国際決済銀行がそうなるである。しかし現状では、その機能を果たしうるのはある1つの外国の中央銀行か、そうでなければいくつかの外国中央銀行の協調だけである。』と語っている。5月のウィーンのクレディット・アンシュタルトの破局を起点とした危機では1930年のヤング案に基づいて新設されたばかりであった国際決済銀行(BIS)に援助が要請された。

国際決済銀行(BIS)は『国際決済銀行に関する条約』と『国際決済銀行定款』から成り、ハーグ条約によって戦争による賠償金の支払いを円滑化させるための機関として設立された。1931年、ヨーロッパ各国で危機が明るみになると、BISは中央銀行とシンジケートを組み、金融危機に見舞われた各国の中央銀行(ハンガリー国立銀行、オーストリア国立銀行、ドイツ・ライヒスバンクおよびユーゴスラビア国立銀行など)に対して緊急融資を行った。この融資の総額はおよそ10億ドルにのぼり、1931年の年頭における国際短期債務残高の10分の1に相当すると言われている。[7]

1935年にはBIS金融経済局長のパー・ヤコブソンは『中央銀行業務に関するメモ』と題する長大な覚書を書き、その中で各国の民間銀行に対して、中央銀行勘定に一定額の預金を義務付けること、各国の中央銀行には外貨準備率の規制を課すことを提言している。後にBISの下部組織であるバーゼル銀行監督委員会(Basel Committee on Banking Supervision)は、世界各国の民間銀行が国際業務を行うための自己資本率が8%なければならないとする、バーゼル規制を制定した(1988年7月)。

第二次世界大戦後は、1944年のブレトンウッズ会議で金・ドル交換と固定相場制を基礎とするブレトンウッズ体制と国際通貨基金(IMF)の創設による国際通貨システムが組成されていった。当初、国際通貨基金(IMF)はあくまで経常収支の赤字に対して、適度な範囲内の融資を行うための機関であり、信用を創造するという役割は想定されていなかった。トランシュは1年に1つの枠しか使えず、最初の枠であるゴールド・トランシュ以外について、貸出を受けられるかどうかは基金の裁定に任されていたからだ。1960年の国際通貨基金におけるGAB協定制定(一般借り入れ取り決め)や1961年9月のポンド支援のためのバーゼル協定などが徐々に国際的な金融危機への協力を行う枠組みを整えていく。アメリカはその翌年1962年3月のニューヨーク連銀とフランス銀行のスワップ協定調印をはじめとして、世界的なスワップ網の構築に一役買った。1963年、10月に、ニューヨーク連邦準備銀行のスワップ網は世界11か国の中央銀行と結ばれ、合計額は10億ドルに達していたという。国際決済銀行が取り決めたスワップ取り決めでは、為替危機に見舞われた国が、自国通貨を必要とする外貨と交換することができたが、利用できるのはG10とスイスに限定されていた。途上国は対外債務の不履行が多く、またスワップは利用できなかったために、結局は国際通貨危機(IMF)や他国の金融機関に頼らざるを得なかった。

1971年のスミソニアン協定後にドル相場の防衛が困難となり、固定相場制から変動相場制へ移行すると共に、ブレトン・ウッズ体制は崩壊した。ブレトン・ウッズ体制の崩壊を受けて、国際通貨制度改革に関する議論が行われ、1978年にはIMFの第2次改正が発行、80年代から金融のグローバル化が加速すると共に金融資本の国際間移動が活発化していった。1982年8月のメキシコに発生したユーロ・シンジケート・ローンによる金融危機では、連邦準備銀行の10億ドルのつなぎ融資と、原油10億ドルの前倒し購入で急場を凌いだ。しかし危機は去ってはいなかった。再度メキシコである。1994年、メキシコでは、農民の反乱、大統領候補の暗殺、インフレーションを背景とした資本逃避が生じ、ペソが大暴落した。NAFTAや国際通貨基金(IMF)、および国際決済銀行(BIS)主導によるヨーロッパの中央銀行による拠出によってメキシコは救済された。

1990年代に金融のグローバル化は世界に広がり、通貨危機が幾たびも発生する。1997年、タイから始まったアジア通貨危機、1998年のロシア、1999年のブラジルなどである。メキシコ危機のように国際的な金融危機については、域内の協力体制や利害のある複数の関係組織がレジームとなり救済することが多くなっていた。冒頭に述べた2007年のサブプライムローンだけでなく、2009年に発覚した財政赤字によるギリシャの金融危機(2018年6月に金融支援から脱却)や2019年にはイギリスのEU離脱が予定されているなど近年は先進国から国際的な危機の広まる可能性が高まっている。

金融危機が国際的に伝染することや、最後の貸手による融資がある特定の状況のもとでは有効であること、さらには歴史研究などから、国際的な最後の貸手が必要であることは明らかであるが、世界政府も世界中央銀行もなく、規制力の弱い国際法しかない中で、だれがどのように国際的な最後の貸手を担うのかは重要な問題であると考えられている。

「誰が」「誰を」

金融危機の際には流動性不安や信用性不安に対し通貨を投入し、嵐が去った後に通貨を引き揚げることが適切な処置であることは明らかであるが、通貨を供給する最後の貸手について常に付きまとう問題は、『誰が』その役目を負うのかという点と『誰に』供与するのかという2点である。各国内においては最終的な責任および権限を持つ政府が存在するという意味において、現代的には中央銀行がその役目を果たさざるを得ない状況であった。イングランド銀行をはじめとして中央銀行が次第に最後の貸手としての機能を提供するようになっていったが、中央銀行が適切な判断を下せるかということについての明瞭な回答はない。過去の中央銀行の判断について非難した文献は多く残っているからだ。

例えばフランス銀行とパリの銀行業者は、1882年にユニオン・ジェネラルを救済しなかったが、1889年にはパリ割引銀行を救済した。その理由は、フランス銀行の理事たちはユダヤ人の系統であり、ユニオン・ジェネラルを支援するカトリック教徒との摩擦があったためとされている。またイングランドの1772年の危機の際には、疑わしい手形を割り引くかそれとも割引を拒否するかに関する規則をイングランド銀行は発布したが、これはアムステルダムのユダヤ人商会を破滅させようとしたものであると考えられていた。逆に1989年10月の株価大暴落の後および1999年のLTCMの破綻を回避したアメリカの救出は好例であったといえるだろう。

国内については中央銀行が徐々に最後の貸手としての役割を担い、国際的にはスワップ網や国際通貨基金(IMF)を中心とした、協調体制を構築することで対応をしてきたことを述べた。1994年のメキシコ危機では、NAFTA、国際通貨基金(IMF)、および国際決済銀行(BIS)主導によるヨーロッパの中央銀行などが合計51.6億ドルを拠出した。その後の1997年にタイから始まった東アジア危機は、国際通貨基金(IMF)、世界銀行、アジア開発銀行などによる合計117.1億ドルによって救済されている。

責任が特定の個人や組織に偏ると、客観性は失われ、生殺与奪の力が中央主体に与えられるという結果をもたらす。責任が単一点に存在する場合には、対応の圧力は強まるが、集団の数が大きくなるにつれて、責任の所在は不明となっていき、意思決定が複雑化していくことは明らかである。

曖昧さが市場に不確実性を与え、それが市場をよりいっそう自立的にするからであるが、不確実性が大きく、市場を混乱させるようであってはならない。 — C.P.キンドルバーガー

最後の貸手はマネーと同様に社会的な技術であり、政治的なコンセンサスを得ることで機能すると考えらえる。これまでも述べたきたが国内においては中央銀行は最後の貸手として通貨を創造し、危機を救済することができる。なぜならその国の中央銀行が存在し、最終的に責任を負う政府が存在するからだ。だが国際的にはそうではない。ミクロ・プルーデンス、マクロ・プルーデンスや、金融機関破綻時のベイルインの議論もあるが、進んだ規制緩和によって複雑化した全体のシステムは実体把握が困難である。2008年11月5日、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の落成式に参加したエリザベス2世はその7週間前に破綻したリーマン・ブラザーズを契機とした金融危機についてこのような質問をした。[8]

『なぜだれも危機が来ることに気が付かなかったのでしょうか』

ルイ・カリカーノ教授はエリザベス2世へ『各状況において誰かが誰かを当てにしており、全員が全員正しいことをしていると信じられていたからだ』と回答している。2009年7月にはこのことについて英国学士院で討論が行われ、エリザベス2世への回答が提出されている。[9]

And there is also finding the will to act and being sure that authorities have as part of their powers the right instruments to bring to bear on the problem. The difficulty was seeing the risk to the system as a whole rather than to any specific financial instrument. Tthey frequently lost sight of the bigger picture.

個々のリスクについては把握され、危機の予兆はあったが、全体としての危機についてはその到来を察知できていなかったということを最終的に結論付けている。ブロックチェーンにおいてマネーを分散化したように、非中央集権という技術によってガバナンス自体も非中央集権化することが考えられてきた。最後の貸手としてガバナンスを発揮する主体は政府、中央銀行(もしくは近年場合によって企業)といった巨大な権限を持つ組織であったが、非中央集権によってガバナンスそのものを民主化することが期待されている。

非中央集権の中の中央集権

『市場は忘れっぽい』と、よく言われる。それは仮想通貨市場においても同じようである。2010年8月15日、ビットコインのブロック#74638において 92233720368.54277039 BTC(920億 BTC)のトランザクションが生成されていることが報告された。コードの整数オーバーフローのバグを突いた悪意のある行為でコミュニティは攻撃のあった時点以前のブロックチェーンの状態にロールバックし、それまでのトランザクションを全てキャンセルすることで対応した。[10]

日本でも有名なマウントゴックスのハッキング事件においてはトランザクション展開(Transaction Maleability)のバグを突かれた同取引所から 744,408 BTC(当時約3億5千万ドル)ものビットコインが消失し、マウントゴックス社は取引所での全ての取引を停止した。2014年2月28日に同社は 東京地方裁判所民事再生法の適用を申請している。[11]

2016年にはThe DAOのスマートコントラクトの欠陥を突いた攻撃によって 360 万 ETH が攻撃者のアドレスへと送信された事件があった。The DAOはEthereumプラットフォーム上でDAO(自律分散型組織)を実現するプロジェクトとして、投資家から計150億円もの資金を集めていた。Ethereum財団はこの送金を無効とするためにハードフォークの実施を決定し、元のブロックチェーンはEthereum Classicとして、新しいブロックチェーンはEthereumとして現在も稼働が続いている。

2018年1月にはCoinCheck社に対する攻撃によって5億230万 NEM(当時580億円相当)がハッカーにより盗み出された。2019年7月にはBITPoint社への不正アクセスからホットウォレットで管理する35億円相当の複数仮想通貨が外部へ送金されたことが明らかとなった。2社とも仮想通貨建てで顧客補填することを決定した。

コミュニティによるブロックチェーンのロールバック、一部の人間による信用の供与や通貨取引所の破産、以前には取引所代表者の死亡により秘密鍵が紛失され、仮想通貨が取り出せなくなるという事件もあった。危機の際の最後の貸手(というより救済)が、仮想通貨においては責任の所在や権限が極めて狭い領域や個人へ偏っていることが俯瞰できる。ビットコインをはじめとする仮想通貨は中央主体を分散化し、マネーへ非中央集権をもたらしたかに見えた。しかし実際は情報や資本といった価値の蓄積によって主権性を発揮する変異したバンクマネーのようなものに過ぎない。真に中央主体のいない分散化されたマネーシステムではないのだ。[12]

そもそもビットコインは元々直接取引のための支払いシステムであり、マネーシステムとして動作することを期待されていなかった。ビットコインのホワイトペーパーはビットコインを以下のように定義している。

An electronic payment system based on cryptographic proof instead of trust, allowing any two willing parties to transact directly with each other without the need for a trusted third party.

信頼できる第3者を必要とせず、信頼の代わりに暗号的証明によって2者間が直接取引する電子支払いシステム、である。つまりビットコインの世界ではビットコインを法定通貨と交換することは想定されておらず、また仮想通貨取引所のような市場で決済することも考えられてはいない(少なくともホワイトペーパーおいては説明がされていない)。2者間で直接取引をする支払いシステムであり、決済システムではないということだ。またSettle(決済)の機能を満たさないビットコインは『マネーシステム』でもない。ビットコインを決済させるシステム(決済しているかのように見せる)、また法定通貨と交換できるシステムを市場が作り上げたことでビットコインが伝統的なマネーシステムへと近づいたことは間違いない。[12]

Bitcoinのやりとりだけで全てが完結する、という世界においてのみ、この仕組みが二重支払いのないPaymentとして機能する、という主張しかしていない。

ビットコインが取引所などで取引できるようになりマネーのように機能し始めると、その他の仮想通貨やトークンはマネーシステムへ組み込まれることを前提として開発されるようになる。一部の仮想通貨ではオンチェーンガバナンスが導入され、プロトコルについての変更やロールバックを投票で決定できるが、ガバナンスへの投票者は限られたリソースを持つ運営者や仮想通貨を多量に持つ個人であることも少なくない。

富める者はますます富み、貧しき者は持っている物でさえ取り去られるのである — 新約聖書マタイ伝13章12節 —

仮想通貨はマネーを国家や中央銀行主体の管理体系から切り離すことに成功したが、主権的な力学は依然として強く働いている。それは最後の貸手機能についても同様である。デジタルシフトの加速によって、最後の貸手は仮想通貨などのデジタルマネーやデジタル資産をも含む金融危機への出動を含まざるをえない。さらに国際的な規制緩和と国際的な投資市場や資本市場の進展はシステムをますます複雑化させるだろう。マネーシステム全体を鳥瞰した新たなシステムをグローバルな産官学民で練り上げていく必要がある。

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Written by Yuya Sugano

Cloud Architect and Blockchain Enthusiast, techflare.blog, Vinyl DJ, Backpacker. ブロックチェーン・クラウド(AWS/Azure)関連の記事をパブリッシュ。バックパッカーとしてユーラシア大陸を陸路横断するなど旅が趣味。

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