モスキートと太陽と湖

Yuya Sugano
9 min readJun 8, 2019

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Vox Veritas Vita. An essence of life dwell in genuine words.

10年ぶりにカンボジアの首都プノンペンを訪れたのは、忘れられない場所があったからだ。ボンコック湖、いまはもうない湖だ。正確にいうと埋めたてられ消失してしまった湖。その場所を確かめたくて友人を無理やり誘い出し、バンコク発プノンペン行の乗り合いバスへ乗り込んだ。バスの運転手によるとプノンペンまでは約8時間だという。「向こうについたらビールでも奢るよ」と友人を懐柔した。その8時間という長い時間をオンボロの乗り合いバスで過ごせるか彼は実に不安そうな表情であった。バスが乗客を乗せてゆっくり動き出すと、私はプノンペンの情景を思い出し始めていた。

Boeung kak before the lake was filled in.

灼熱の太陽と夜の静寂と、プノンペンは昼と夜とで対照的な顔を持つ街だった。舞い上がる砂塵を防ぐため人々はクロマー(手ぬぐい)を口へ押し当て、バイクや自転車で職場や学校へと急ぎ行く。モニボン通りのロータリーではクランションが飛び交い、熱気で路面は蜃気楼のようにちらついていた。通りで売っているドリアンの臭気が暖かい風にのって流れてくる。かつてはフランスの植民地として東洋のパリとまで謳われた街だが、70年代にはクメール・ルージュによる人々の強制退去により廃墟と化していたこともある。ポル・ポト政権は原始共産主義を目指し、医師や教師を含む知識階級の人々を虐殺した。その他多くの人もまた強制労働や飢餓によりその命を落としていった。大量虐殺の場であった『キリングフィールド』『トゥール・スレン収容所』にはいまも当時の殺戮の面影を資料とともに残している。1979年にベトナム軍が再びプノンペンを制圧し、パリ和平協定から国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が設置された。1999年にポル・ポト派が事実上消滅してから、私が滞在していた2000年台初頭に入ってもまだ内戦の影響は尾を引き国内には様々な社会問題が残っていたようだった。

だが外を歩けばモートやシクロの男達は陽気だった。通りの子供たちも屈託のない笑顔を見せてくれる。サンポット姿の女性のはにかむ表情にはこの地で大虐殺が起きたとは想像できないような大らかさがあった。居心地の良さから私は1か月、また1か月とビザを更新してプノンペンへ滞在し続けた。夕暮れどきトンレサップ川のほとりにいると、人懐っこいカンボジアの人はよく話しかけてくれた。そこでは人々の関係がはるかに丸みを帯びているようだったのだ。それがクメール・ルージュという暗い歴史の反動から来るものなのか、クメールの人々が本来持つ気質というべきものかまでは一介の旅行者には分からなかったが。

Things to Do in Phnom Penh Cambodia

旅行者にとってプノンペンは大きく2つの地域に分かれていた。トンレサップ川沿いに集まるホテルやゲストハウスを中心としたリバーサイドと呼ばれる地域と、そしてもう1つが街の北側ボンコック湖の周辺にゲストハウスが密集するレイクサイドだった。リバーサイドはシルバーパゴダ、王宮などの有名観光地が近く旅行者だけでなく仕事で訪れている人も多い。トンレサップ川に吹く風は心地よく、セントラルマーケットやプノンペン唯一のショッピング・モールといってもよいソリヤへも歩いて行けた。観光に疲れたら市場で新鮮なフルーツを買ったり、安いマッサージやスパへいく楽しみもある。

対照的にレイクサイドには世界中から集まる長期滞在のバックパッカーが多った。レイクサイドの中心にはボンコック湖があり、湖を取り囲むゲストハウスから見る美しい夕陽はバックパッカーに有名だった。水鳥が湖水面すれすれを飛び、湖上にあるコテージやテラスからは少年が水草を掻き分けながら舟を漕いでいく様子が見える。ゲストハウスは街と同居して存在していてプノンペンの生活を肌で感じることができた。だがレイクサイドは同時にまた別の強烈な光を放っていた。ドミトリー(相部屋)1ドルのゲストハウスと朝から営業しているバー、安いマリファナや麻薬、UNTACが引き連れてきたであろう娼婦たち、貧しい物売りの少年少女、それらに浸った旅行者たちが沈没していた場所でもあったのだ。疲弊しもう動く気力すらない者たちが重い沈殿物のように無為に日々を過ごしていた。

私はレイクサイド目抜き通り沿いの小さなアパートの部屋を借りた。1部屋1か月借りても50ドル程度でゲストハウスに宿泊するより安かったからだ。そのはす向かいの小さなバー『モスキートバー』で他の旅行者とビリヤードや会話を楽しむのが私の日課だった。バーには南国風の調度品や観葉植物が置かれ、路面店でお店の扉はいつも開けっ放しで、水辺の近くだから蚊(モスキート)がよく出る。それが店名の由来であるようだった。扇風機の生ぬるい風にあたりながら氷を滑らせたグラスにアンコールビールを注ぐ。気温が高いせいか冷蔵庫に入っているビールは十分に冷えておらず、氷屋から氷を買ってきては冷たくして飲んだ。初めて氷屋へ行ったのだが、ざくざくと鋸で氷を切り出す音が心地よく氷が必要になるといつも率先して氷を買いにいった。褐色肌の男が刃の粗い鋸を氷へあて動かしはじめると、鋭い音とともに火花のように透明な氷の破片が辺りに散った。その目抜き通りの裏には名も無き小さな商店があり日用品や雑貨、お酒などを卸していて生活するのに不便しなかった。その商店へも私はすぐに遊びにいくようになった。商店の娘のサニーや弟のポンルゥがバーへ日用品を届けに来ていたからだ。商店ではご飯をごちそうになったり、時折店番を任されたりして、年下ではあったがサニーやポンルゥとは旧来の友人のように仲良くなっていった。ボンコック湖が埋めたてられる、そんな噂をサニーから聞いたのはプノンペンに来てから3、4か月ほど経ったころだった。レイクサイドはいつも混沌としていてそんな噂話で溢れていた。通りすがりの旅行者には数ある噂話の中の1つに過ぎなかったと思う。

Death of the Lakeside (Boeung Kak)

ふと目が覚めるとあたりは真っ暗だった。街灯のない道をバスはまっすぐ進んでいる。どれぐらい乗っていたのだろう。道の両側にぽつぽつと民家があり、薄暗い灯りのついた家の中で人影が動くのが見える。時計を見ると既に予定の8時間は経過していた。友人は車窓からバスのヘッドライトが照らす道の先を不安そうに眺めている。もう到着しているはずだったが、周りの乗客へ聞くと、まだ1時間以上はかかるだろうということだった。バスがプノンペンの中央バスターミナルに到着したのは、予定から3時間以上遅れた午後10時ごろだった。私たちはリバーサイドのホテルに部屋を見つけ、友人にとっては初となるアンコールビールを楽しみながら夕食をとった。レイクサイドでなくリバーサイドに宿を取ったのは、ボンコック湖がすでに埋め立てられていたことを知っていたからだ。東南アジアの旅から戻り数年経ったころ、友人づてでボンコック湖がついに埋め立てられたことを聞いた。カンボジア政府はボンコック湖の土地を99年間、7900万ドル(約80億円)である企業へ貸しに出すことを2008年に決定したのだった。

私はレイクサイドへ行ってみたかった。ボンコック湖のあった場所は今どうなっているのか知りたかったのだ。翌日、私たちはセントラルマーケットへ行き遅い朝食をとると、トゥクトゥクでレイクサイドへ向かった。レイクサイドの目抜き通りは当時と何ら変わってはいなかった。舗装されておらずでこぼこした狭道、土煙をあげながらトゥクトゥクは走り抜けていく。だがほとんどのゲストハウスは営業しておらず辺りは閑散としていた。レストランやバーも見当たらず旅行者の姿も見かけない。湖の埋め立ての影響がなかったわずかなゲストハウスも申し訳なさそうに細々と営業を続けているにすぎず、レイクサイドは既にその光を失ってしまったようだった。私は借りていたアパートのところまで来るとトゥクトゥクを降りて裏の商店へと向かった。私はそのとき思いがけずサニーを見つけた。プノンペンの太陽のように強い眼差し、褐色の肌、仕草ですぐにあのときの少女だと分かった。彼女は美しいクメールの女性になっていた。彼女たち家族はきっと埋め立てに伴う立ち退きに応じなかったのだろう。もしくは目抜き通りや商店のある場所は湖から少し離れていたから、埋め立てによる影響はそれほどなかったのかもしれない。私は思わず苦笑しそっと踵を返した。目抜き通りのアパートを借りる前に滞在していたゲストハウスへと向かう。そのゲストハウスには湖上に浮かぶコテージがあり、湖を臨むテラスがあった。

水面に浮かぶ子舟とそれを漕ぐ少年、湖面が灼熱の夕陽に照らされるとき周辺のバーは旅行者で溢れ、物売りの少年少女が集まり、娼婦がきて酒を飲み、マリファナの煙が拡散していく。夜はいつも意味もなく茫々としてただ更けていった。そして今、まるで何の意味もなかったかのように、すべてがそこから消えていたのだ。コテージは取り壊され、テラスだった場所の前には限りなく土が広がっている。湖はまったく完全に埋め立てられていた。

プノンペンの街を去る数日前のこと、ゲストハウスのテラスへ行くと欧米の旅行者がアンコールビールを飲みながら、壁の黒板いっぱいに何かを書いていた。ボンコック湖の水面にキラキラと反射する夕陽と、それに照らされる彼の背中はどこか遠かった。あたりにはさきほどまで誰かが吸っていたであろうマリファナの匂いが立ち込めている。書き終わると、彼は私の視線に気が付いたのか、ふっと微笑み軽く手をあげ去っていった。黒板には白いチョークで大きく書かれている。「ライフイズバックパッキング」。途中にあること、旅にあること、それは虚偽のようでいて酷く真実に近いときがある。迂回ではなく妙に真ん中なのだ。人はどうせ思い通りには生きられない。ボンコック湖に映る灼熱の夕陽を見ながら、私はあとどれくらいここにいるのだろうと考えていた。

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Written by Yuya Sugano

Cloud Architect and Blockchain Enthusiast, techflare.blog, Vinyl DJ, Backpacker. ブロックチェーン・クラウド(AWS/Azure)関連の記事をパブリッシュ。バックパッカーとしてユーラシア大陸を陸路横断するなど旅が趣味。

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