ポストマネーの肖像

Yuya Sugano
34 min readNov 28, 2019

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いつの時代も人々は思考習慣の中で、貨幣に対する懐疑的な視線をもってきたが、現実世界の利便性の観点からは貨幣とマネーシステムを受け入れざるを得なかった。産業革命以降の資本主義経済の扱う現代経済学と、経済思想の中の古典経済学における乖離は、この貨幣に対する使用価値と交換価値に隔たる差異への警戒にあったといっても良いだろう。現代において交換価値を表象する価格を提供する貨幣は限界費用がゼロに近づく世界にあって、その立場を失っていくが、それでは財・サービスの価格が失われ労働が消滅していく時代には貨幣も失われてるのだろうか。時代の背景にある思考習慣は累積的な結果と循環的な作用を伴って変化していく。資本主義が経済の中の辺縁部へと押し出されるとき、価値の交換において新たな貨幣やマネーシステムの在り方が出現する可能性がある。本稿ではフォーティファイドマネー共感価値、ポストマネーという3つの概念を提唱した。一部は歴史上で既に現れた概念やその類型も含まれる。

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まえおき

限界費用がほぼゼロへと近づき、汎用人工知能の発展によって純粋機械化経済が訪れるときには、獲得する必要性が希釈するために無用性・潤沢性の社会が出現するかもしれない。これはジョルジュ・バタイユの蕩尽や至高性にその動作を確認することができる。そのとき交換の動機は獲得から贈与も含む、浪費し破砕するという思考習慣へ逆流し、使用価値や交換価値だけでない価値による経済パラダイムへの転換が見込まれることを述べた。限界費用がほぼゼロへと近づく世界においては、財やサービスがほぼ無料で提供されるために、資本から得られる利益は枯渇し、経済学者が「最適一般福祉」と一般的に呼ぶ状態に達するかもしれない。この状態は経済効率が最大化されている状態であり、資本主義の最終到達点であるのだが、資本から得られる利益は枯渇し、この地点へ到達すると同時に資本主義の終焉を結果的に招くことになる。本稿ではここからさらに歩を進め、交換に作用する価値やその価値移転に係る貨幣やマネーシステムについて考察する。[1]

「価値という言葉には2つの異なる意味がある。それはあるときにはある特定の対象の効用を表現し、またあるときにはその特定の対象の所有がもたらす他の財貨に対する購買力を表現するのである。前者を使用価値、後者を交換価値と呼んでも差し支えなかろう」 — アダム・スミス『諸国民の富』

古典経済学では使用価値と交換価値による2つの経済活動の循環の不都合を解決することが出来なかった。使用価値は抽象的な価値基準を普遍的には設けることができない。使用価値をここで生産物などが持つ効用であるとすると、その効用や意味するところは個々人によって異なってくる。例えば水を飲みたい人にとってダイアモンドを飲むことはその代用にはならないであろう。水は喉の渇きを癒すという効用を持っているのであって、ダイヤモンドを水の代わりに飲むことはできないからである。それに対して、交換価値は一般化した価値を価格として市場で表現したものであり、経済活動を通して交換価値がさらに自己増殖を遂げていくことを可能とした。マネーシステムの1つの特徴として個々人が生活次元で必要な財やサービスを購買する価値(価格として近似される)も、国家や企業が資本として蓄積する価値も同じ抽象的な尺度で計測できるようにしたことが挙げられる。市場経済から資本主義経済へと発展するにしたがって、貨幣による金利や蓄積された資本による交換価値を増大させていくことが可能となっていった。[2]

「近代の経済思想家たちは、使用価値の問題を、経済学の理論構成のなかから切り捨てざるをえなかった。貨幣を媒介にした経済の動きを分析する学問になることによって、経済をひとつの秩序のうちにとらえる理論をつくりだす端緒についたのである。」 — 内山 節「貨幣の思想史」

資本主義経済が興隆してきた背景に、機械化による効率的な大量生産が可能となることで、消費のための生産から交換のための生産へという画期的な転換があったことが挙げられる。元来は消費のための生産によって使用価値として認識されていたものも、資本主義的思想においては、交換のための生産への転換によって経済的価値は交換価値的な価格による表象となっていった。生活次元においては個々人は財やサービスを交換価値ではなく使用価値として認識する。そのとき通常は使用価値を抽象的な尺度で測ることはできない。したがって使用価値は抽象的な貨幣価値で本来比較不可能である。なぜならその財を使用することによって得られる効用は、その財が使用される個々人およびその個々人における状況や文脈によって全く異なるからだ。砂漠を漂流する人にとっては山積みのダイヤモンドよりも、コップ1杯の水の効用が高いことは明らかである。ところがコップ1杯の水が市場ではほとんど値が付かないことに対し、1カラットのダイヤモンドは一般的に非常に高価な価格を持つ。貨幣で測定できる交換価値とは使用価値の個別性を取り払った上で、さらに価格が価値に近接することを前提として成り立っている。アダム・スミスも『諸国民の富』の中で同じ問いを発している。なぜ使用価値の異なるものが、交換価値では等価であることになるのだろうか、と。

「最大の使用価値をもつ諸物がほとんどまたはまったく交換価値をもたぬばあいがしばしばあるが、その反対に、最大の交換価値をもつ諸物がほとんどまたはまったく使用価値をもたぬばあいもしばしばある。」 — アダム・スミス「諸国民の富」

古典経済学は使用価値と交換価値の違いを認識していた。ところが現代経済学は、経済学を経済哲学から切り離し、数理的な現象として分析する秩序だった理論体系としたことで使用価値、関係性に基づく価値という人間的な営みに基づく価値の視点を放棄してしまったことに短絡があった。古典経済学が富として表現した有用性の部分は、経済学が発展していくにしたがって切り取られたのである。経済は価値の部分で活動しているのであって、使用価値を増やすために活動しているのではないと考えられるようになった。

経済の基本的原則として『交換』の欲求が挙げられる。獲得に対する交換の欲求に対してマネーシステムは効率的に信用取引をおこないそれを清算する方法を提供した。既に様々な研究によって明らかになっているように、過去に遡って物々交換から貨幣が発展してきたようではないことから、財の中から貨幣が選ばれたのではなく、貨幣とこの背後にある貨幣の機能や構造の導入が、マネーシステムを構築する上で効果的だったことが考えられる。物々交換にはウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズのいう『欲求の2重の一致』『価値尺度の欠如』『分割方法の欠如』といった困難が伴う。貨幣は価値を交換する上で発明された人為的な社会的システムであったと言えるだろう。さらに価値尺度の導入は、個別的であった使用価値や労働価値というものを共通の秩序のもとで抽象化することに成功した。そのとき使用価値は交換価値によって間接的にそして論理的に認識されるしかなかったのである。経済学では、市場における商品の購入によって使用価値が購入され、また商品の生産によって使用価値も生産されるという諒解が前提化されていったのだ。この諒解が正しいかのごとき擬制の上に市場経済は成り立っているのである。商品化された労働生産物に関するかぎり、人々は商品を購入しなければ使用価値を手にすることはできないのであって、それゆえに資本制商品経済は、商品を購入することによって使用価値も譲渡されたものとみなした。労働によってこの使用価値が生産されるということを前提に、労働による交換価値が使用価値を商品として購買させる過程を通して、交換価値の循環が使用価値の循環を間接的に支える擬制を成り立たせたのである。この擬制の元で抽象化された価値単位が使用されることで価値の移転記録や、譲渡性といった他のマネーの性質が発芽する土壌が育まれていく。なぜなら共通の価値単位がなければその記録や譲渡には困難が付きまとうと考えられるからである。

現代の資本主義が絶えざるイノベーションによって生産性を極限まで高めたとき、人間生活のあらゆる財やサービスはほぼ無料で提供され、市場経済では生活次元における財・サービスの購入がほぼ不要となっていく。財やサービスのコストが無料へと近づき、市場経済が消滅していく社会では、ジェレミー・リフキンの言う分散型・協働型の社会における交換が中心となり、労働市場における労働商品も無料へと近づいていくだろう。なぜなら資本市場において財・サービスを販売することによって得られるはずの経済的利得が発生しないからだ。 さらにビッグデータ、高度なアルゴリズムや人口知能(AI)による自動化や省力化は、限界費用の逓減だけでなく労働の消滅も招いている。 機械が生産の手段から、生産の主力、生産そのものへと成っていくだろう。純粋機械化経済によって機械である資本自体が生産を行い、さらに生産する機械を生産していくのであり、現代的な市場経済への人の労働参加は不要となる。アダム・スミスの言葉からは、労働賃金をゼロへすることは人による生産を逆説的に行えないことを示している。

「利潤はその生産を継続しうる最低限にまで低下する傾向をもっているが、労働賃金は、その賃金によって労働者=労働再生産が可能な水準以下にまで引き下げることはできないのであり、仮にそのような低賃金で働かせることができたとしても、それでは生産を長い間継続しえないからである。」 — アダム・スミス「諸国民の富」

古典経済学ではフランソワ・ケネーのような『自然価値学説』の概念やアダム・スミスデビッド・リカードカール・マルクス、また重商主義の系譜による『労働価値』の考え方によって経済や富を捉えようという試みがなされてきた。現代の経済学ではGDPなどの経済指標で生産などの経済量を計測している。ところが無用性・潤沢性の社会の前では、市場や労働が消滅していくために、これまで前提となってきた有用性や稀少性に基づく『価値』基準が失われていくのである。そこで獲得する要求に応じる交換ではなく、破砕し浪費する要求に応じる交換が与えられる可能性を示した。獲得はその生産物などの効用を期待するものであるが、破砕は浪費による栄誉を期待する交換であった。ここで求められるのは交換による効用ではなく栄誉であり、その価値像は従来のものと大きく異なっている。[3]

経済の起源において、交換のような取得方式は、獲得の要求に応じるのではなく、反対に喪失し、破砕する要求に応じたものだった。 — 『 空虚な栄誉の経済』ジョルジュ・バタイユ

それでも一部の生き残った資本主義企業や政府などの公共財・公共サービス部は、使用価値や交換価値によるいわゆる価格による価値の表象で提供されるかもしれない。しかし生産量や効率化でしか測られることのない価値体系、人を利用への従属、生産のための器具としてしか見なさないような資本主義の暴力性は消え去っていくだろう。価値における有用性や稀少性は影を潜め、貨幣は市場で財・サービスを購入するための唯一の表象ではなくなっている。一般的な労働を売り貨幣を買い、貨幣を売り商品を買うという思考様式は捉えがたいものとなる。そのとき交換に作用する価値とその価値を交換するための貨幣とはどのような概念なのだろうか。本稿ではフォーティファイドマネー共感価値、ポストマネーという3つの概念を提唱することで新たな経済の在り方を探ってみたい。

フォーティファイドマネー

協働型、分散型の社会において、市場における財やサービスの交換は発生しなくとも個別の交換の欲求というのは残っているはずである。特に地域の共同体の中における非市場経済など、貨幣化される必要のない交換がその代表である。日本も含む中世史を見ると、農村社会において共同体内で労働と生活が完結しているときには、交換の中心は共同体の慣習に基づいた贈答贈与となり、貨幣の存在性が薄かったことが分かっている。市場のない世界では、従来の方法とは異なる方法で、交換物・サービスの価値を測定し、何等かの方法で価値移転を行う必要が生ずる。当然ここでの価値とは抽象的に測定できる価値=価格というよりも、個別具体性に基づく使用価値であるから、現在の貨幣がこの交換に必要な価値移転を成り立たせる唯一の方法とはなりえない。経済学理論は市場における抽象的なある取引者Aをおき、その取引者Aたちの取引を仮定して価格形成や価格弾力性が市場でどのように算出されるか考察する。ところが貨幣化の必要がない取引は取引者Aが市場から購入するという行為ではなく個別具体性を持つAさんがBさんへ交渉することで交換が発生する(もしくはBさんからAさんへの交換の持ちかけもあり得る)。つまり市場における交換価値による価格というよりも、純粋にお互いの使用価値に基づく価値移転となってゆく。価値とはその物(生産物などと考える)のもつAさんの期待する効用で測られるべきであるから、市場のない場合には常に個別具体的な価値、個別具体的な使用価値の移転とならざるを得ない。使用価値は常に相対的価値であり、Aさんとその物との関係性の中で規定される。Aさんのその財に対する獲得要求が強ければ強いほどその価値は高まるし、またその相対的価値はAさんとBさんとの関係性の中でも変化し得るのである。したがって基本的には2重の相対性がこの取引の中には存在していることとなる。またこの交換においては価値交換における価値が均等でなくても両者が納得すれば交換は成立する。つまり等価交換でなくともよい点が挙げられる。

秩序的な経済理論による使用価値の抽象化(例えば市場経済における価格)は困難であるから、価値交換において交換比率に応じてAさんとBさんの所有物を交換することが必要となるかもしれない。この交換財を文脈上は貨幣と呼んで差し支えないが、現代のマネーシステムにおける貨幣の機能を満たすような交換財として存在はしない。このような物々交換に近い価値移転の形式には、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズの指摘するとおり「欲求の二重の一致」の問題があるが、電子的な物々交換が可能であれば両者に一時的な交換財を設けることでこの交換は達成されうる。例えばAさんの制作する音楽を購入することに、Bさんの生産する電力を送電するというように。マネーシステムの要件の1つであった市場における抽象的な価値単位を測定する機能はこの交換において必要性がない。また貨幣ではない交換財が出現する場合には貨幣の譲渡性も薄くなる。この交換に使用した交換財を貯蔵する動機も存在しない。

「資本制商品経済は、様々な擬制のうえに展開している。本質的には使用価値を問題にしていないにもかかわらず、あたかも商品の購入が使用価値の獲得であるかのごとく展開する。価格が価値を表現しているかのごとき擬制も成立している。」 — 内山 節「貨幣の思想史」

グローバルに分散された水平型、協働型の社会ではこのような交換を電子的な情報交換で達成できる可能性が高い。特にブロックチェーンのような非中央集権型システムであれば、取引者間の個別具体的な取引条件に基づき双方の認識する価値移転を処理する規約を作成し、効率的な交換を促進することができる。 このように既存のマネーシステムの機能を変化させたもの(追加や削除も含む)をフォーティファイドマネー(強化された貨幣)とここでは呼称したい。機能の削減だけではなく、機能の追加もフォーティファイドマネーに含むこととする。

シルビオ・ゲゼルは『自然的経済秩序』の著者で、金本位制や金利の存在を問題視し、「減価する貨幣」を提唱した人物である。貨幣はマネーシステムにおいて抽象的な価値単位を提供するだけでなく、貯蔵し蓄積することができる。財やサービスを獲得し消費する際には、通常正の費用が発生するが、資本主義経済において蓄積された貨幣や資本はさらなる生産を可能とするために、金利という形で負の費用が発生する。シルビオ・ゲゼルは貨幣を交換を行う上での価値基準としては残しつつも「交換手段と貯蓄手段」という観点では貨幣の機能を分離しなければならないと考えていた。財やサービスを供給することに対する貨幣の需要と、貨幣の供給に対する財やサービスの需要を考えたとき、貨幣を供給する側が常に有利な立場であることは、この貨幣の貯蔵可能な原理から発生する金利効果から自明である。財やサービスはその使用価値自体が毀損されるために、交換価値として表象される価格は減少する傾向にあることに対して、貨幣にはその性質はなくむしろ金利効果によってその価値が増加する傾向がある。単純に表現すると売れない商品は安売りされるが、お金を銀行預金に入れておけば金利が付くということになる。また衣類を100万円分買うよりも、投資信託を100万円分買うことのほうが合理的な判断に見える(衣類の限界効果は考えていない)。つまり貨幣の供給側に生殺与奪があるのであってその逆ではない。これがシルビオ・ゲゼルが問題視した点であった。[4]

「金は市場(商品の交換)を開く鍵ではなく、市場を閉じる錠前である」 — ピエール・ジョセフ・プルードン

シルビオ・ゲゼルは交換手段、抽象的な価値単位、譲渡性という機能を持つマネーシステムに貯蔵性という機能は必要ないと考えた。貨幣は消費されることがないことに対して、財やサービスは消費され消滅していくからである。消滅できるから使用価値が減損されていくのだが、貨幣は抽象的で概念的なものであるからその交換価値は特別なことがない限り減損され得ない(グレシャムの法則は金銀などの財を貨幣として選ぶことで、削り取りによる現物的な消費=減価をもたらす行為を意味していたのかもしれない)。シルビオ・ゲゼルはこの貨幣の持つ特権を廃止することを考え、自然的に財・サービスが持つ劣化するという機能を貨幣にも持たせることを提唱した。これが『減価する貨幣である』。貨幣に財・サービスの消費される性質を付与することで、貨幣を交換財として機能させる試みであるとも言える。減価する貨幣による影響として以下のようなことが予測されていた。

  1. 需要の規則化 — 貨幣の供給側と財・サービスの供給側の対称性
  2. 資本金利の消滅 — 貨幣から貯蔵による有用性を剥奪
  3. 交換手段と貯蓄手段の分離 — 貯蓄手段としての優位性が低下

減価する貨幣は貨幣の貯蔵性の効果を負の方向へと低減させることで貨幣の供給者を不利な立場へと導く。実際、大恐慌が深刻化する中で、ドイツやフランス、オーストリアなどで、減価する貨幣が地域的に導入され、地域経済の立て直しに成功した事例がある。特に1932年から翌年にかけてオーストリア西部のチロル地方「ヴェルグル」という町で実施された「労働証明書」が有名である。シリングと2%の手数料で交換可能な労働証明書は、毎月減価されるように設計され、破綻状態であった町役場を救済したどころか、ヴェルグル経済圏の経済水準の改善をもたらしたという。通貨発行は中央銀行の特権であるという理由で、翌年9月にこの「労働証明書」が禁止されてしまうまで、その経済効果は250万シリング程度あったと予想されている。貨幣の貯蓄手段としての機能がこの減価する貨幣の元ではそれほどうまく働いていないことが分かる。ただし経済学者で『雇用・利子および貨幣の一般理論』の著者であるジョン・メイナード・ケインズは著書の中でゲゼルについて触れ、減価する貨幣について鋭い疑問を投げかけている。貨幣の利子率は、つまり金利はなぜ貨幣においてマイナスにならないのであろうか、と。一般的には交換可能性のある紙幣やマネーについて人々は流動性や金利が高いものを選ぶ可能性が高い、流動性選好(Liquidity-preference)と呼ばれる特性があるというのである。国家や主権者の信用力に担保されている、つまり信用力にペッグされている貨幣には証書としての譲渡性が高い。減価する貨幣へ金利を付けることも実質的は可能だが、市場における他の通貨金利に対しては不利な金利率となるはずである。例えば、市中の金利が0%のときには減価する貨幣はこれに対抗するために減価分を含め実質0%以下の金利とならざるを得ない。従って流動性の高い法定通貨や高い信用力と金利を持つ通貨が基本的に選ばれるのであり、減価する貨幣は補完通貨にしかなりえないという議論がある。

ブロックチェーン上で発行される一部の仮想通貨は特定の個人や国家、また主権者が発行されず、非中央集権的に分散されたノード間の台帳を更新することで成り立っている。この通貨は世界中どこでも使用できて、その信用力は分散型のノードと非中央集権や暗号学といった技術的叡智によって支えられている。ブロックチェーンにおける仮想通貨の裏付けがあるトークンでは焼却(バーン)機能を持たせていることが多い。この機能はトークンを一定量焼却することで、トークン単位あたりの仮想通貨建ての価格を上昇させる効果がある。プログラマブルな通貨や証券ではトークンにおける焼却機能のように減価する機能を実装することは容易である。国家や主権的な信用のある貨幣を減価する貨幣とすることはその影響が甚大であるが故に難しいが、ブロックチェーン上の仮想通貨やトークンは流動性選好(Liquidity-preference)の観点からも減価機能の実装の容易性からも実用化は期待できる。また電子的な通貨の場合には、ヴェルグルの「労働証明書」のように物理的な減価を印すスタンプを貼る必要もない。BIS(国際決済銀行)によると、2010年の時点で、1日に平均4兆億ドルの国際的な為替取引が行われており、これは1992年の8800億ドルの4倍以上であるという。一般的な通貨を減価する貨幣とした場合には、この国際的な金融市場で一斉に売却が発生することで、対象通貨の価格が暴落し通貨危機へと陥る可能性がある。仮想通貨が唯一の法定通貨である国はまだないため、比較的幅広く流通している仮想通貨を対象として減価する機能を実装することは現実的であると考えられる。財やサービスがほぼコストゼロで提供されている状況においては、貨幣の需要自体も少なく、市場における利得が枯渇しているために労働市場も消滅している可能性があることを述べた。従って減価する貨幣が解決する問題は、貨幣需要の少ない社会においては不要かもしれない。財やサービスの供給側がほぼ無料のコストで提供可能となるために、貨幣需要は現在の一般的な姿では存在し得ない。ただし次節で述べるような従来の価値交換では表現されてこなかった価値を交換する場合には、貨幣およびマネーシステムが引き続き使用される可能性がある(ここでは当然、何らかの使用価値に対する要求が人々に引き続きあり、しかし限界費用がほぼゼロに状況であるために、モノの供給は過多で、貨幣に対する需要が少ないという世界像を想像している)。有用性や稀少性は市場における財やサービス、現代の資本主義経済の中では意味をなさないかもしれないが、価値の交換という概念はいままでと異なる文脈で意味を発揮するのかもしれない。

共感価値

財やサービスがほぼ無料で提供される無用性・潤沢性の社会においては、交換価値という擬制の上に成り立つ抽象的な価値単位を用いる必要性が希釈される。市場経済では、交換価値が使用価値を商品として購買させる過程を通して、交換価値の循環が使用価値の循環を間接的に成り立たせていたが、労働生産品の交換価値が消滅すると、この交換価値による使用価値の循環を成り立たせることができなくなるからだ。そこで獲得する要求の希薄化と破砕する要求の再興について論じたが、社会において交換という行為自体は引き続き必要であると考えらえるから、その交換における価値は従来の価値とはかけ離れたものとなっているだろう。前提としてまず価値とはその物(生産物など)からある人が得られる効用であると考える。この価値とは現代経済が客観的価値として定義する交換価値ではなく、非合理で相対性の元に置かれる使用価値がその基礎である。

無用性・潤沢性の社会では、無料で手に入る財となるであろう毎日飲むコーヒーという財の効用や、衣服の効用による有用性や稀少性に基づく価値はなくなり、それらの財の市場経済における交換価値も発生していない世界像を想像できる。したがって特殊な財やサービス、または人々が交換したい何かに価値が与えられることが考えられる。ここでの価値とは個別具体的な使用価値という特徴を持っている。個別具体的な使用価値とは使用価値が置かれている状況とそれを要求する人の間における関係性、また個々の人がそれを要求する場合のその提供者との関係による、つまり人によって異なるような評価に基づくものである。水とダイヤモンドは交換価値においては交換可能だが、使用価値においてはひとつひとつが固有な価値となるために比較対象ができない。水の効用を求める人と、ダイヤモンドの効用を求める人や状況は社会において全く異なる。特殊な財やサービスとは、その一部に公共財・公共サービスも含まれるだろうが、逆に効率的ではないものコト消費などを含む浪費祝祭にまつわる事柄についての財・サービスの交換がより意味を増す可能性がある。

交換の欲求は財やサービスが個々人へと幸福をもたらす効用のためにあると前提を置く。先に述べた『価値とはその物からある人が得られる効用である』という想定から価値とは幸福をもたらす効用であると本稿内では帰結される。無用性・潤沢性の社会の中で、生きていく上で必要な衣食住などが既にほぼ無償で提供されているとすると、人々が求めるものはより幸福をもたらすことに密接に基づく交換へと近接していくはずである。仮に社会において人々が幸福をもたらす効用を求めていることが真なのであれば、なぜ幸福自体を、もしくは幸福の養分を直接的に交換しないのだろう。当然幸福をもたらすもの主観的で人それぞれ違うのだから、間接的に財やサービスによる効用によって便宜が図られるという面はあったに違いない。しかしながら幸福な感情や幸せな気分を人から人へ分配させることができるのであれば、そのこと自体に大きな価値があると言えるのではないだろうか。アランはその著書『幸福論』の中で、幸福は細切れに分けられているものだと述べた上で上機嫌こそ分配すべき宝であると述べている。[5]

君が上機嫌であることをお祈りする。これこそ交換し合うべきものである。これこそみんなの心を豊かにする。まず贈る人の心を豊かにするほんとうの礼儀作法である。これこそ贈り合うことによって増えていく宝である。この宝を通りにも、電車のなかにも蒔いたらよい。一粒たりとてむだにはなるまい。それの蒔かれた至るところで、上機嫌は芽を出し、その花が咲く。 — アラン『幸福論』

感情は人間の神秘的な心の動きや表現によって伝染する、例えば涙や笑いがそうであるように。ここでは上機嫌は人から人へと伝染するのであって、分配や交換をしているわけではないと考えられる。上機嫌をその文字通り『交換』することはそれが『伝染』することとは異なる。しかし上機嫌を文字通り道端に蒔いたり、元気のない友人に分配したりすることはできるようになれば良いのである。この幸福の養分を何らかの方法で伝播することができれば上機嫌によってもたらされる価値は交換可能となる。ここでは感情など高次の欲求によってもたらされる価値を共感価値と定義したい。この価値はやはり個別具体的で客観化できる価値ではあり得なく、市場で取引される株や債券などの交換価値で測定できるものとは性質を異とする。また使用価値のように効用があるものの、交換で間接的に幸福をもたらすものではなく、効用によってもたらされる本質的な幸福の効果を直接的に表現するようなものである。

「いいね」ボタンの発明者であるFacebookのエンジニア、ジャスティン・ローゼンスタインは、ガーディアン紙の記事内でその機能について述べた際、「『いいね』は擬似快楽の鐘のようなもの(Bright dings of pseudo-pleasure)」だと表現した。この「いいね」も情緒的な価値を伝達しているという意味で使用価値や交換価値とは異なる共感価値に近いものであると考える。なぜならこれは具体的な効用による使用価値を持つ財のようなものではないし、いいねを何個取得したとしても貨幣のように市場で使用することはできないからだ(但し、いいねを換金できるpoppleというSNSがリリースされているようである)。「いいね」のシステムは報酬システムのように働き、メンタルヘルスやユーザの生活へ深刻な影響を及ぼしているとする研究もある。しかし「いいね」自体が問題なのではない。その「いいね」がコミュニティの中で開示されていることや、「いいね」の数が表示されていることから顕示欲や報酬系が刺激されているため、「いいね」自体が交換価値の価格のようにSNS内で浮遊し、貨幣のように運動していることを指摘したい。例えば多くの「いいね」を集めている人や記事には価値があるという風に。インスタグラムは2019年5月からオーストラリアを皮切りに7か国で「いいね」数を非表示にできる仕様へと変更しており、Facebookなど他のSNSでも似たような動きがあるようである。[6]

「いいね」は共感価値を交換するための交換財となり得るかもしれない。SNS上でそれが抽象的数で表現される際には、共感価値における価格のように作用してしまうが、共感に対する財として交換し合う場合には、共感価値の有効な伝達手段であると考えられなくもない。ただしSNSにおける「いいね」は一方的に付与される性質を持つから(受け取り側がその受信の制御をできない)、返礼を期待する義務的贈与に近い可能性がある。「いいね」をもらうと「いいね」を送り返してしまう社会的習慣がそれである。これは通常の生活で実施している感謝という行動にその性質が近い。感謝は一般的に言葉によって音声表現されるが、「いいね」ではなく空間を伝播する言葉によって価値表現をなしていると考えることができる。共感価値は価値ではあるものの、使用価値のような効用や市場における交換価値を取り扱うわけではないために、交換において貨幣や交換財を用いることが有効であるとは限らない。感謝という行為によって価値が交換されているのだと解釈すると、そのとき交換に使用されたものは言葉と発話である。この交換は本来人間が交換によって他者との関係を結ぶという意味において、自然な交換の1つである。人間の能力や生産物は、その人間の能力の対象化であり、この表現の交換によって、相互が社会で生きていく上で欠くべからざる存在であることを諒解しているからである。次節では社会における価値体系において価値認識が批判される様相を通じて、価値作用の体系が希薄となる社会を考察する。

ポストマネー

経済において、というよりも個々の人間の個体間における交換なしには、個体は生きることができないという意味から、交換は社会的な人間にとって必要なものである。モーゼス・ヘスはその著書『貨幣体論』の中で、生命活動の交換と交通という概念で、人間の存在の在り方を定義している。モーゼス・ヘスの言う交通とは、いわいる物資や人の交通だけでなく、自然と人間の交通、人間の意識や文化の交通、さらに「同一の共同体の各成員やあるいは同一の身体の各肢体との交流」も含む広義のことを指すという。人間は基本的に自然の中で生き、社会の中でまたその中で経済を通して生きている。決して経済の中でのみ生きているわけではない。だから、自然と交通し、意識や文化も含めて他の人間や動物と交通し、さらには社会と交通し、その1部分として、経済の面でも交通している。マネーシステムの発明や市場経済の興隆に伴って、この交通によって発生したものは有機的交換ではなく、ただ生産物の商品取引として経済の中で取り扱われていく。産業革命から資本主義経済を経ると、人々は常に例外なく、活動、生産力、能力、つまり自身を商品として交換することとなり、現代では資本の多産性による功利的な経済活動における交換価値の交換のみが重要視されるようになってしまった。資本主義は豊かで多様な人間関係の生態系や人間観の交通を、金銭的関係という機械的で単調な仕掛けへと変えることで、他者との人間的な関係を巧妙に断ち切ることが可能な技術であった。この世界像の中では、使用価値を持つ商品も、人間の労働力もすべてが数値化され、交換価値である市場の価格によって、つまり貨幣量によって表現されている。

「貨幣は人間の外化された能力であり、商品取引される生命活動である。貨幣は数で表現された今日の社会の人間的価値であり、今日の奴隷制の刻印であり、今日の隷属の消すことのできない焼印である」 — モーゼス・ヘス『貨幣体論』

労働者は日々の労働を通じて貨幣を市場から買い取っているのであるが、個人として存在し続けるためにはこの活動をし続けるしかない。したがって人間はすべて、自らの生命を自由に活動させることを制限され、創造したり、有機的な交換や交通を行うことが実質的にできなくなっているという。社会的な営み、人間の神秘的な生命活動、こうしたものを統計や数で表現することを幸福だと思わねばならぬような世界像を確立させられているのである。この世界の中では(モーゼス・ヘスの呼ぶ「疎外された交通の社会」)、人間の本当の価値が見失われ、またそれが剥奪されているとみなされる。貨幣による抽象化された社会では、人々は自由意志によって人間本質のシステムへの譲渡によって現実的奴隷となっているのである。モーゼス・ヘスは有機的共同体を生み出し、疎外された交通から人間を解放するための貨幣廃棄論を展開した。初期社会主義思想において人間の価値が増大していくことによって貨幣は無価値へとなると予測されたことに反して、純粋機械化経済と限界費用ほぼゼロの世界では、逆に貨幣による使用価値や交換価値の測定の必要性がなくなっていくことで、段階的に貨幣が廃絶されていく可能性がある。社会主義的な変革が始まって、貨幣が社会から抹殺されていくのに「せいぜい1世代もあれば十分であろう」とモーゼス・ヘスは残している。

「人間の価値は必然的に金で買えない価値へと高まり、無価値な貨幣は必然的に下落してまったく価値を失うようになる」 — モーゼス・ヘス「共産主義の信条」

マネーシステムにおける価値の交換という文脈において、使用価値にせよ交換価値にせよ、交換には対象物の有用性に基づく固有の価値が内在しているという前提に立脚していた。ところがある財やサービスにある使用価値は、抽象的で客観的な価値が内在しているわけではなく、対象物とそれを交換で得る主体との関係によっていかようにも変化し得る。価値を作り出しているものは、使用価値においても、交換価値においても(市場に価格も同様)、その価値実体はその関係的世界において意味を成している。価値を生み出す関係性が価値の実体を作り出すのであって、内在する固有の価値から、有用性に基づく使用価値やそれを数で表現した抽象的な価値単位である交換価値が表れるのではないのである。古典経済学における、交換価値の循環が使用価値の循環を間接的に成り立たせる擬制について取り上げたが、そもそも使用価値というもの自体が客観的に認識しうるものではないと考えられる。このことはソシュールの言語思想と対比すると理解がしやすい。客観的に存在する事物というものが存在するのではなく、秩序とは人々が言葉によって編み上げていったものに他ならない。同様に客観的な価値というものが、使用価値においても交換価値においても存在するのではなく、それは全て人間が価値作用の体系によって編み上げてきたものなのである。ポスト・モダン流の解釈を行うと、現在の世界像は、貨幣という記号によって抽象化された価値システムであり、価値システムというのは関係性に基づく価値体系を基底とし常にその信用系を編み変えていく非秩序的な運動の総体とその連続した運動の結果であるように思える。つまり価値作用の体系に対する認識というのは言語においてその体系自体の普遍性を導き出せないことと同様に、価値の認識不可能性と価値の認識批判へと至るのである。

ところで無用性・潤沢性の社会ではまずその価値が変容するという運動があることが考えられた。そこには市場を介さない協働型の共同体的世界における交換、使用価値を用いた個別具体的な交換や、交換財を使用した交換比率に基づく交換などの可能性があるが、総体として価値系の概念がなだらかに変化していく様子が鳥瞰できる。ボードリヤールやドゥルーズの論理では、資本主義は自壊しないと言われてきた。ボードリヤールの展望は、社会に対して延期された贈与を死によってシステムへ挑戦すること、ドゥルーズのそれは狂気によって資本主義機械の公理系を攪乱することであった。無用性・潤沢性の社会において、資本主義は価値系の多様性とその編み変えによる世界像の変容によって死滅していくと考えられる。さらに価値の認識不可能性によって価値を捉える意味自体が希薄化され、価値という言葉の喪失が起こるかもしれない。価値とは個々人において交換するものによってもたらされる幸福による効用であると想定したが、価値という言葉自体がその存在意義を失っていくとき、価値の交換やその交換の運動を支える価値作用の体系も不要となっていくのである。ボードリヤールは、資本は決して自壊しないということを前提とする限り、資本・労働、価値・使用価値等々は、社会関係の実体を映したものではなく、単に資本の総体的な運動を表象する「記号」と見なされると表現した。[7]

「資本が生産様式による社会的決定を廃棄し、価値の商品形態を価値の構造形態に置きかえる。この構造形態がシステムの現在の戦略全体を支配している。」 — ジャン・ボードリヤール「象徴交換と死」

ところがこの価値『記号』は価値自体に秩序立った実体がなかったとしても、価値作用の体系に、つまり価値という言葉によって支えられている概念機械ではあるのである。価値の認識不可能性へと至り価値の存在意義が薄れたとき、つまり価値という言葉が不要となる場合にはこの価値作用の体系は動作することができない。さてここでさらに歩を進めてみる。先に交換の動機は財やサービスによる効用によってもたらされる厚生や幸福といった価値であると仮定した。ここでは価値の存在しない世界を想像し、交換という作業それ自体が交換の動機なのであると考えてみたい。いま価値を交換することに作用するものでなく、社会における交換という作業自体へ係る何かしらの道具または記号をポストマネーと定義したい。このポストマネーは何を表象しているのだろうか。人間の能力や生産物(財やサービスも含む)は、その人間の能力の対象化であり、この対象化された表現の交換によって、相互が社会で生きていく上で欠くべからざる存在であることを諒解している。この対象化された表現の交換に価値の交換という欲求が発生することが従来のマネーの機能によって達成されていたことであった(獲得の場合にせよ贈与にせよ)。価値体系による意味付けをこの表現の交換の文脈から省略するとそこには相互諒解のための交換という要素だけが残されることになる。つまりポストマネーとは社会における人々の相互諒解の表現であるということになる。このような交換の変化によって人々の関係性も総体的に変化し、抱く世界像も大きく変わっていくだろう。貨幣やマネーシステムは現代の人々の思考様式や日々の生活の行動に密接に結びついている。この貨幣と社会、貨幣と人々の関係を見直していくことが、また人々の関係性をも見直し、個々人の世界像を変化させていく、つまり社会が変化する契機となるのである。無用性・潤沢性の社会の到来はその試金石となるのではないだろうか。

Reference

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Yuya Sugano
Yuya Sugano

Written by Yuya Sugano

Cloud Architect and Blockchain Enthusiast, techflare.blog, Vinyl DJ, Backpacker. ブロックチェーン・クラウド(AWS/Azure)関連の記事をパブリッシュ。バックパッカーとしてユーラシア大陸を陸路横断するなど旅が趣味。

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