Yuya Sugano

前ではヨーロッパ社会文化形成における蒐集と資本主義による収奪の前提となる超自然的な思考の説明まで。本章においてはさらに歴史を遡って、根源的自然観を持つイオニアの思想家とイソノミアについて触れる。ブロックチェーンとイソノミア(無支配)の復権について。

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前章からの続き

自然(フュシス)という言葉が「なる」「生える」「生成する」という意味のフェスタイという動詞から派生することから、古代ギリシャの人々は自然を自ら成り出でたもの、生成し消滅するものとして捉えていたことを前章で述べた。哲学とは一般的に存在とは何か、ということに対する問いであるといえるがプラトン・アリストテレス以降、この成り出でる根源的自然観から自然は事物を形成している材料・質量にすぎないという超自然的な原理が設定される。そして超自然的思考様式がデカルト、カントからヘーゲルへと近代的に更新されていくことで次第に完成され、ハイデガーがいうように「形而上学が技術として猛威をふるいはじめる」ようになったのである。

とすれば近代ヨーロッパにおける科学や技術の発達と融合、そして産業革命も、哲学と呼ばれる特殊な思考様式を形成原理としてきた西洋社会の必然的な帰結であるといえるのではないだろうか。そしてマルクスが古典経済学を批判し経済批判を行ったように、ニーチェはこの超自然的思考が生まれる前の根源的自然観を復権することで従来の哲学を批判し克服しようとしていた。「キリスト教は民衆のプラトニズムである」と彼はいうが、哲学(プラトニズム)を批判することで、それと一体となって展開されてきた西洋の社会・文化形成と背後にある哲学・道徳・宗教を相対化し乗り越えようとしたのである。[1]

現代哲学は少なからず、このニーチェの西洋文化形成に対するニヒリズムに影響を受けている、もしくはさらにそれを乗り越えようと批判したところから生まれてきたものであると考えられている。ハイデガーはその思想的営為をもはや哲学と呼ばず、「存在の回想」つまり覆い隠され失われた原初の存在の回想と呼んでおり、メルロ=ポンティも晩年には「反哲学」を提唱していた。この時代からさらに、ソシュール言語学を端緒とする構造主義・記号論による関係論への転回や、ポスト構造主義における認識批判など私たちの知る現代思想へと繋がっていくのである。

超自然的な思考とは、すべての存在である全体を捉えたときに、それら全体を看守するような立場から存在を問うような思考のことであるが、古代ギリシャにおける、この存在論の転倒は超歴史的なものではなく歴史的に偶然展開したものにすぎなかったということができるだろう。人間の観念、思想、倫理、価値原理などは、ある時代状況における人間の「生存」を保証するための手段として生成するという『知についてのエコロジカルな理解』を採用すれば、このような超自然的思考は現代まで続く人類生存の一助ではあったものの、その行き詰まりが思想の面からまず問われ、実際に経済の面からも露呈するにつれていま現在は無効化しつつある、ということではないだろうか。[2]

超自然的な原理を立て、自然を死せる材料とみた反自然的に対置していた、古代の自然的思考を復権することで、下部構造としておいた自然や言論の上部にどのような社会・公共が構築されうるのか、そして自然的思考における生成・消滅する自然という存在概念と非中央集権的なブロックチェーンはどのように結びつけられ得るのかということを検討してみたい。また価値交換における利害を一致させるために中央集権的なエージェントが必要であったならば、非中央集権的に法や国家、様々な社会合意システムを改変できるのであろうか、相互的な社会像の編み変えの契機を得られるのであろうかという点は考慮に値するのではないだろうか。

生成する自然

哲学史の叙述はソクラテス、プラトンやアリストテレスから始まるのではない。紀元前6世紀ごろに活躍したタレス、アナクシマンドロスからはじめられ、この年代の思想家たちをプラトン以降と同様の言葉である”哲学”者と呼ぶわけにはいかないので(哲学というのは古代ギリシャに起こった超自然的な思考をもつ存在論であり、当時はかなり特異なものの見方であった)、ドイツの哲学史家はこの思想家たちを「フォアゾクラティカー」と呼んでいた。フォアゾクラティカーとはドイツ語でソクラテス以前の人たちという意味である。

フォアゾクラティカーには、タレスだけでなくピュタゴラス、パルニメデスなど様々な思想家が広範囲に含まれるが、共通していえることは彼らがギリシャ本土の出身ではなくギリシャ本土よりも文化的に先進していたイオニア地方やマグナ・グレキア(イタリア南部・シチリア島)の出身であったことが挙げられる。またソクラテスと対峙したアテナイのソフィストたちは、もともとはペルシア戦争の結果衰微したこれらの地方から亡命してきた知識人たちであった。彼らは因襲的なものの考え方を脱した普遍的教養を身につけ、当初は啓蒙的な役割を果たしていたが、次第に弁論術や詭弁術を教えることで生計をたてるようになっていったという。

これらの思想家は自然(フュシス)を自ら成り出でたもの、生成し消滅するものと捉え『自然について』という題で本を書いたと伝承されている。さてここで注意されたいのは、この”自然”とは私たちが一般的に使う環境的な自然(草木など)の存在領域のことではないということである。このような物質的な自然観は超自然的思考から出てきたものであるが、この原理を設定したのは、プラトン・アリストテレスの線からであり、イオニア、マグナ・グレキアの思想家が問うていたのは存在の本性としての自然、ありとあらゆる存在者、存在者の真の存在という古い根源的な意味での自然なのであった。

この点については木田 元の『反哲学史』ではこの”自然”について以下のように説明されている。「この自然という言葉は、存在者の特定領域を指すのではなく、事物一般の本来あるべきあり方を意味しています。この意味は広辞苑では、おのずからなる生成・展開を惹起させる本具の力としての、ものの性、本性、性質と定義されています」「フュシスとはもともとは、存在者のある限られた領域を指すのではなく、一切の存在者 — いわいる自然的存在者も、精神的なもの、歴史的・社会的なものも含めた一切の存在者 — の本性、その真の在り方を意味していたのです。」[3]

そしてこのおのずから生成・消滅する自然として考えられていたものが、プラトン・アリストテレスにおいては外部的な物質自然とみなされ、超自然的な思考様式とあわさって、死せる材料としての自然という存在観念へ転回してきたのであった。思考の飛躍を許すならば、死せる機械としての労働すなわち人間という資本主義における資本と労働の図式もほぼこの古代ギリシャに生まれた思考様式が基礎となっているのである。プラトンの超自然的な思考は、当時のギリシャではかなり異質なものであったらしく異国風(エクトポーテロス)であったとさえ言われている。

この”自然”(フュシス)という語ははローマ人がnatura(同様に生まれる、生ずるという意味)と訳し、それが英語のnature(自然)としていま現在は使用されている。ローマ人にとってもこのフュシスという語は当初「生成」という響きを持っていたことは間違いないだろう。アリストテレスは、この根源的な自然観について、ta physei onta「自然によって存在するもの」と定義し、それは「運動(生成・消滅)の原因を自己自身のうちに内蔵している存在者」のことだと言っている。つまりプラトンの超自然的な自然観とは異なり、存在するものはすべて、この自ら生成・消滅する原因であり結果でもあるような存在者であるとみていたこととなる。

自然(フュシス)とは、昼夜の交替、四季の移りかわり、天体の運動、海の浪のうねり、植物の生長枯衰、動物の生誕や死滅といったすべての自然的運動を支配している原理であり、人間の社会や国家も、そして神々でさえもが同じ原理によって支配されているように思われたのでしょう。 — 『反哲学史』木田 元

この生成消滅する自然的運動といっても、混沌とした無秩序な動きというわけではなく、存在者に内在する運動の原理によってなされていたと考えられた。そのような秩序を、たとえばヘラクレイトスはロゴスと呼ぶが、これは荒唐無稽な想像というわけではなく、ベルギーの化学者であるイリヤ・プリゴジンの非平衡熱力学の議論にも見られる、自己組織化の議論へも通ずる現象と考えられる。この自己組織化は自然そのものの中に既に秩序を形成する可能性があり、それによって生命や人間などの存在が生成していったと考えられる、一元論的な世界観を持つものである。[2]

このような自己生成的な自然観の復興は、いたるところで取り上げられており、ことさら強調するまでもないのだが、このような思想の巻き戻しが発生する背景には時代からの社会に対する要請が、思考として方々に滲み出てきていると言わざるを得ないのではないか。そしてブロックチェーン的観点からは、この生成するという点にブロックの生成を、ロゴスにスマートコントラクトなど埋め込まれた法や通貨という部分を重ね合わせると、この生成する自然観とブロックチェーンの持つ一元的な非中央集権性というものが相似な性質として浮き出てくるのである。

イオニアでは自然から逸脱した存在はノモス(慣習・約束事・法)と呼ばれ、人為的にのみ存在している仮象にすぎないとされ、ノモスもフュシス的な自然観のもとに包括されるべきと言われていた。ところがソフィストの時代になると、自然的存在論はわきに追いやられ、彼らは専らノモス的で人為的なもの(弁論術・詭弁術)に注力するようになった。ここでヘラクレイトスが、「ロゴスは公共のものであるのに、たいていの者どもは各自の思惑をもっているかのように生きている」というとき非中央集権な性質を持つブロックチェーンの存在が生成する根源的自然観と接合され、ノモス的なものを達成する下部の公共として活用し得ることが確認されるのである。

イソノミア

紀元前6世紀ごろに活躍したフォアゾクラティカーたちと時を同じくして、エゼキエルなどの預言者、インドではブッダやマハーヴィーラ、中国には諸子百家など数多くの思想家が誕生していたことは有名である。既にみてきた通りプラトン・アリストテレス以前の自然的な存在論は、ギリシャではなくその時代に先進的であったイオニア地方出身の思想家によるものであった。その後にアテネで発生する哲学は、このイオニアの思想を相対化し、乗り越えようとする試みの中で生まれてきたものである。このイオニア由来の思想をイオニア自然哲学ともいうが、ここではその根源的な自然観をともなったイオニア地方の在りようを振り返ることで、根源的自然観の基礎となる社会について見てみたい。

当時イオニアはその文化的・社会的な要因によって先進的であったと言われている。ギリシャの民主政の要因として挙げられる、フェニキア文字のアルファベットへの改良や、国家官僚による価格統制を行わず市場原理へ任せたこと、血縁的な伝統を超えた各人の自主的な選択によって成り立つポリスの原理などが挙げられる。ギリシャの自律的なポリスの在りようは、はじめイオニアの植民都市によって起こり、それが派生してギリシャ本土のポリスへと広がったとみられている。ギリシャのアテネやスパルタのようなポリスでは氏族社会的な伝統が濃厚に残っていたが、アジア的な専制国家の道を通らなかった。柄谷行人は、その理由を彼らが専制国家を拒む原理を保持していたからだと説明する。[4]

それがイオニアから来たイソノミアの観念である。

イソノミアとはイオニアで使用される政体に与えられる名称であり、支配のない自由で平等な社会の形態である。ハンナ・アーレントによるとイソノミア(無支配)は、ギリシャの都市国家(ポリス)の出現と同時に生まれたという。市民が支配者と被支配者に分化せず、無支配関係のものに成り立っているような統治形態で、支配の観念(君主制『monarchy』、寡頭政『oligarchi』、民主制『democracy』)がまったく欠けていることが特徴であった、つまりno-crachy=イソノミアである。アテネに誕生した民主政(デモスによる支配)は当時多数支配、多数者の支配を意味する言葉であったが、もともとイソノミアに反対していた人々によって作られた政治形態であった。[4]

このイソノミアにおいて人々は伝統的な支配関係から自由であり、そこでは自由なだけでなく経済的な平等も達成されていたといわれる。対してアテネのデモクラシーでは多くの市民が債務奴隷となり、多数の貧困者層が国家権力をつうじて少数の富裕者から富の再配分を行うシステムが作り出されていた。アリストテレスは民主制についてこういっている。『民主制においては貧乏な人々が富裕な人々より有力になる、というのは、彼らはより多数であるが、このより多数の者が決定したことが最高の権威を持つからである』つまり、民主制は平等でなく多数者支配の原則を有しているのである。

この点からアテネは現代の自由・民主主義的な国家のようであり、抱える問題も自由・民主イデオロギー下の資本主義における問題に似通っている。アテネは市場経済を認め、言論の自由を認めていたが、不平等や階級対立の問題が強く存在していた。既に述べたとおり富の再配分によって不平等を是正すると言う点においてもいま現代において直面している資本主義の問題と基本的な構造は同じである。対してイソノミアは自由であることがそのまま平等へ繋がるような社会であり、イオニアでは貨幣経済が発達していたにも関わらず貧富の差はなかったという。その理由を詳しくみていこう。

まずイソノミアはなぜイオニアに始まったのか。その理由を柄谷行人はこう説明している。「そこでは植民者たちがそれまでの氏族・部族的な伝統を一度切断し、それまでの拘束や特権を放棄して、新たな盟約共同体を創設したからである。アテネやスパルタのようなポリスは氏族の盟約連合体として形成されたため、旧来の氏族的伝統を濃厚に留めたままであった。それがポリスの中の不平等、あるいは階級対立として残ったのである。そのような所でイソノミアを実現しようとすれば、デモクラシー、すなわち、多数決原理による支配しかない。」[5]

イオニア地方では、氏族社会的な拘束や特権から離れた植民者たちによってポリスが形成されていたことが、イソノミアという特殊な無支配の社会形態をもたらした。イソノミアでは、個人がそこに生まれたというだけで、その贈与に対して報いなければならないような互酬原理から切り離されており、血縁的な氏族社会に見られる階級対立や不平等、それを解消するための再分配というシステムはなかったという。人々は血縁的なつながりや拘束から自由であった。その要因となったのはイオニアにおける植民の力学と遊動であった。

イオニアでは植民者が新たに形成する共同体は、それ以前のポリスや氏族から独立していた。通常、植民に際しては氏族社会的な繋がりを元とするため、ポリスをそれぞれ独立、拮抗させるよりはポリスの拡大競争を促し、最終的にはアジア的な専制国家となる傾向がある。事実、イタリアではローマ市が勝利し帝国を築いていた。人類学者のテスタールによれば、氏族社会に内在する不平等・階級対立と搾取を回避するために集団の分裂が発生し、植民を行っていくことで遊動性と平等が回復されていくという。紀元前10世紀から8世紀までギリシャでは活発な植民が行われたが、これがイオニアをきっかけとしてアテネなど他のポリスへも波及していき、この植民の連続が、氏族社会の伝統を無効化したのである。

氏族社会における植民では、その血縁関係によって他方が従属的となり結果として、ポリスの拡大を招いてしまう。他方この氏族社会の伝統を無効化するような植民では、氏族社会や血縁関係の伝統から切り離され自由であり、ポリスへの参加は自発的なものであった。植民者は血縁関係や伝統的な互酬原理ではなく盟約(社会契約)によってポリスへ参加しており、それら植民者から成るポリスは互いに競争しながらも緩やかな連合体を形成していった。貨幣経済が進んだことによって階級分解が発生し、アテネではデモスによる民主化へ、スパルタでは貨幣廃止によるコミュニズムへと進展するのだが、イオニアでは貨幣労働がなく私的な生産や交易が主であったため不平等や支配=被支配は生じなかったという。

柄谷行人は同著で、イオニアに独立自営農民が主で大土地所有者がいなかったために、賃金労働がなかったこと、アテネやスパルタと異なり奴隷制生産がなかったこと、またその交易が国家的ではなく私的交易であったことから格差の広がりや階級分解に至らなかったと分析している。土地の囲い込みがなければ、資本主義の誕生期のように無産者は生じないし、また奴隷や大規模な遠隔地貿易は国家による独占と税制による支配=被支配関係を発生させる可能性がある。イソノミアでは、そのような不平等や支配=被支配が発生する要素が少なかったことと、発生する前にその遊動性によって新たなポリスへその盟約(社会契約)によって移ることができるため、自由でありかつ平等であるという性質を維持できたのである。

無限定なもの

さてそれではイソノミアのような無支配の社会が生成してくる場から、イオニア自然哲学的な思想が生まれてくることへの関連は何だろうか。アテネで見られたような奴隷制による生産、貧民の増加と外国人からの課税などはすべて支配=被支配の関係であり、まさしく超自然的思考を導入するような部分があるが、イソノミアにおいては遊動と自由が、平等へと繋がるような仕組みとなっており、それが自然哲学における物質の自己運動と生成の概念へと連動している。各個人が盟約(社会契約)をもとにポリスを選択できること、支配=被支配がなく自由であること、賃労働や奴隷制がないことは自然(フュシス)の原理に沿っており、それらに反さないことがそのままイソノミアを達成する要件となっているのだ。

自己運動し自ら生成する自然(フュシス)という概念は世界生成の神話にその始まりを見ることができる。これはカオスから世界が生成されたと詩作したヘシオドスの『神統記』などに見られ、カオスからガイアやクロノスなど自然的な統治部が先んじて生成され、人間的社会よりそれらが上位におかれていることからも分かる。丸山真男の『歴史意識の<古層>』という論文では、どの民族にも万物の成り立ちを説明する創世神話は、「なる」「うむ」「つくる」のいずれかに分類されると言っているが、ギリシャ神話は「なる」という植物的生成モデルによって成り立っており、対照的にユダヤ・キリスト教など超自然的な神が世界を創造したと設定するものは「つくる」論理によって成り立っているといえる。

そしてイオニアの自然哲学者はこの世界を生成してくるカオスであるところの根源的な生成する要素を始原物質(アルケー)として問い始め、アナクシマンドロスは始原物質を「無限定なもの」であると考えていた。自然哲学ではタレスが万物の祖として水を見るなど様々なアルケーへの問いがあるが、基本的にすべておのずから生成し自己運動することで万物へと流転するという点では一致している。仮に物質の自己運動を否定するならば、物質から運動の機能を切り離して考えなければならない。つまり物質は外部からの運動の力を起こすエージェント(主体)によって変化させる必要があるという考えである。この思想はそのままプラトンやアリストテレスの超自然的思考へと繋がるものであることは明らかである。

法や税は国家の組織(エージェント)によって執行され、利害の一致を取り計らうものであるということを述べたが、運動の力を起こすエージェントとはまさにこの超自然的な立場であるところの主体であり、非自然的公共と定義したものはおしなべてノモス(慣習・約束事・法)的であると考えられ、自然ではなく仮象であると見なすことができるのである。自ら生成・運動する自然観とブロックチェーンのアーキテクチャ、ロゴスによる法・秩序は公的な領域を、仮象の相対的世界であるノモスによって成立させるのではなく、フュシスの段階において実現することを可能とし、また上部構造であった国家や法といったものを下部構造から乗り越えるような意味をもつのではないだろうか。

ここに生成・消滅する自然として、超国家的・脱国家的な枠組みによって既存の文化・社会制度を相対的に乗り越えようとする端緒を見ることができるのである。それは理想的にはイソノミアのような自由・平等をもたらすシステムの可能性があり、遊動性によって人々へ多くの選択肢を与えるものとなるはずである。この可能性がビットコインやブロックチェーンアプリには自然内在しているのであり、人々はいわば既存の国家という枠組みからブロックチェーン経済圏・生活圏へ遊動し植民していると見て取ることもできると思われるのである。例えば自国がエルサルバドルのように法定通貨=ビットコインとなった状態を想像してみてほしい。

イオニアでは盟約(社会契約)によって、血縁や氏族社会による互酬原理が乗り越えられていた。ノモスをロゴスへ従わせること、つまり非中央集権的に社会システムを構築し得ること、生成する一元的なステートを管理するブロックチェーンがあること、そこへスマートコントラクトによる法を埋め込めること、これらによって根源的な自然観とみなされる下部の自然的公共であるブロックチェーンによって、上部の非自然的と定義した公共性の装置を、いまは超自然的思考を介在することなく達成できるのではないかと考えるのである。そしてこのブロックチェーンの技術で達成しうる新たな社会様式と人々の思考様式は古代ギリシャで途絶えた無支配な社会形態であるイソノミアに相似したものとなるのではないだろうか。

Reference

  • [1] 木田元 — 『反哲学入門』新潮文庫
  • [2] 広井良典 — 『ポスト資本主義 科学・人間・社会の未来』岩波新書
  • [3] 木田元 — 『反哲学史』講談社学術文庫
  • [4] ハンナ・アーレント — 『革命について』志水速雄訳、ちくま学芸文庫
  • [5] 柄谷行人 — 『哲学の起源』岩波現代文庫

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前章ブロックチェーンと公共性についての走り書きから、中央主権的な存在とそれを生成する思考様式の土壌について。ヨーロッパ社会文化形成における蒐集と収奪の前提となる超自然的な思考まで。前と後に分けて、後でイソノミアについて言及予定。 前章からの続き 前回『ブロックチェーン ~その公共性とイソノミアへの導入~』では、ブロックチェーンの持つ性質による公共性の可能性についての個人的な考察を記述し、本章の骨子とすることとした。そこで非中央集権的な性質を持つブロックチェーンは下部の公共性の装置として、上位となる国家・法などの公共性をアップデートし書き換え得る可能性について言及した。互酬主義に基づく交換の習慣として贈与や分配があるが、国家・法や社会契約はそのような交換の利害を解決するためのシステムとして社会に存在していると考えられることを前提としている。[1] 前章ではエージェントを不要とする公共性を自然的公共、対して非自然的な公共とは人為的でありそれを維持するための組織(エージェント)が必要となる公共と置いた。例として国家・法(宗教)や社会契約、現代の管理通貨などである。これらは公共を提供するための中央主権的存在であるエージェントがいない場合には維持することが困難になる。税を徴収した場合、公共サービスを提供する国家とその組織がその役割を担当することが挙げられる。対して自然的公共である自然環境や言論にはそれを維持するための中央主権的エージェントは不要である。

ブロックチェーン ~公共性からイソノミアへ 前~
ブロックチェーン ~公共性からイソノミアへ 前~

前章ブロックチェーンと公共性についての走り書きから、中央主権的な存在とそれを生成する思考様式の土壌について。ヨーロッパ社会文化形成における蒐集と収奪の前提となる超自然的な思考まで。前と後に分けて、後でイソノミアについて言及予定。

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前章からの続き

前回『ブロックチェーン ~その公共性とイソノミアへの導入~』では、ブロックチェーンの持つ性質による公共性の可能性についての個人的な考察を記述し、本章の骨子とすることとした。そこで非中央集権的な性質を持つブロックチェーンは下部の公共性の装置として、上位となる国家・法などの公共性をアップデートし書き換え得る可能性について言及した。互酬主義に基づく交換の習慣として贈与分配があるが、国家・法や社会契約はそのような交換の利害を解決するためのシステムとして社会に存在していると考えられることを前提としている。[1]

前章ではエージェントを不要とする公共性を自然的公共、対して非自然的な公共とは人為的でありそれを維持するための組織(エージェント)が必要となる公共と置いた。例として国家・法(宗教)や社会契約、現代の管理通貨などである。これらは公共を提供するための中央主権的存在であるエージェントがいない場合には維持することが困難になる。税を徴収した場合、公共サービスを提供する国家とその組織がその役割を担当することが挙げられる。対して自然的公共である自然環境や言論にはそれを維持するための中央主権的エージェントは不要である。

上位の中央集権的なエージェントのある公共は、ここでは一時的にシステムと言い換えても良いと思うが、非中央集権的なブロックチェーンのような下位レイヤーの技術で実現できる、ということがブロックチェーン革命として喧伝されていることであり、活用方法として法の執行、投票、政府(Goverment-as-a-Service)、金融・会計、DAO(株式会社などの組織)、IoT等とその例は枚挙にいとまがない。これはつまり交換に際して人々が対象物(やサービス)の価値を対象としていたからでありブロックチェーンが価値交換のプロトコルとして機能するから、可能となると考える。[2]

1990年代以降、グローバリゼーションを通じて、世界的な「市場の失敗」「政府の失敗」が散見されることに対して、超国家的・脱国家的な組織・会社や活動が増加することは必然的な動きであった。東西冷戦体制が解体して以降、世界経済の市場経済による一元化が進み、資本・経営・資源・労働力などの自由流通と技術革新から、生産力は目覚ましく上昇したが、多国籍企業や金融自由化の結果と共にアジア通貨危機やサブプライム・ローンを発端とした金融危機、欧州の債務危機など様々な問題を連鎖的に引き起こしている(カジノ経済)。

また経済のグローバル化、世界的な自由化、様々な規制緩和などに伴って人々の意識自体のグローバル化も促進している。その領域としては『新・世界経済入門』に書かれるように人権や環境に対する意識である。人権面においては第二次世界大戦後、世界人権宣言が、1976年には国連の場で国際人権規約(A規約、B規約)が発効された。また環境保全についてはオゾン層破壊を防止するためのウィーン条約、気候変動枠組条約である京都議定書やパリ協定などの取り決めがあることは知るところである。[3]

東西冷戦体制時には「共産主義」と「新自由主義」という一元論的世界観であったことに対し、前述したグローバリゼーションと相まって、国家の枠組みとは別の多文化主義やイデオロギー的(〇〇主義、宗教)な価値観に基づく、国民国家といった概念を超えた脱国家的・超国家的な枠組みや動きが現れてきた。金融危機に対する超国家的な枠組みがブロックチェーンによるビットコインという非中央集権的なペイメントシステムであったのであり、超帝国主義的な画一化が発生すると同時に様々な分散化、水平協働型の仕組みや枠組みというものも出てきたのである。

多様化し分散化する社会においては、個々人を画一的な社会制度・国家や思考様式へと押しとどめておくことは困難を極める。橋爪論文では、公共的な問題領域が目に見えるかたちになった最初の証拠は税であるとしているが、大企業による租税回避問題やタックスヘイブンの問題は既に中央集権的なエージェントがそのある公共の領域を看守できないことを意味するように思える。本来は社会的に閉じたある系において個々人が共有していた「共同利害」を一致させるような仕組みであるはずのものが、もはや機能しなくなっているのではないだろうか。

ここで非自然的な公共というものと自然的な公共、例えば自然環境や言論、というものを対置させてみた際、中央集権的なエージェントの存在を持つかどうかがその違いであると前提していた。自然環境や言論は世界地理的に広がっており非中央集権的な枠組みであることに対して、国家(主権)や税、法律は常に執行者というエージェントが存在しており、中央主権的存在であるエージェントがいない場合にはそれらを維持することが困難になる。税を徴収した場合、公共サービスを提供する国家とその組織がその役割を担当することが挙げられる。

したがって重層的な社会の動きの中で現れてくる種々の問題は、非自然的な公共(システム)に必要となる中央集権的なエージェント、ひいては中央集権という観念に対する問題なのではないか。下部構造である自然・言論のようにその上部構造である社会システムを、下部構造と同様に、非中央集権的に作り替えることが様々な問題を緩和・解決するための「公共性の装置」の創出となるのではないかと考えた。そして私たちはビットコインに既にそれを垣間見ているのであるし、またブロックチェーンでの実装によって一部の問題は解決しつつあるのではないだろうか。

次に市場から資本制と歴史的に変遷していく中で見られる中央集権的なエージェントという視点を確認しそれが生まれる土壌を探ってみたい。

市場から資本制へ

近代の市場経済は古代の市場経済をベースとして私有財産制、分権化された経済主体、需給を均衡させるシステムによって成り立っている。古代の市場経済における市場とはある種族間や共同体間における物品の交換、簡易な市による売買という形態をとるものとする。マルクスがいうようにそれは種族間や共同体間で成立し得るもので、交換される財も一部に限られていたと考えられる。この原始的な市場から商品による商品の生産という過程を経て、労働力などありとあらゆるものを商品化しようとする制度が資本制(以降、資本主義)であった。[4]

共同体や種族間の物品の交換においては、各共同体や種族における貨幣や交換基準というものがない場合もあり、異なる共同体間・種族間においてもそのような一定の交換の取り決めはないはずである。そのため1袋の穀物と1房のぶどうというような物々交換も成り立つであろうし、金銀を持ち出したとしてもその貨幣としての評価が他方の共同体が予期するようなものではない可能性もある。これは資本主義における商品経済と比較してみると分かりやすいが、交換価値ではなくその使用価値において交換が行われている可能性が高いからである。

市場の初期状態ともいえる市場経済が近現代のような経済社会・資本主義へ発展していくには市場の拡大にともない複数の条件が必要であった、と経済学者のハイルブローナーは書いている。封建的社会が崩れ、君主制へ移行すると国民国家の精神の昂揚が起きると共に、経済的な取引を成り立たせるための諸制度である貨幣の統一、度量衡、法律などが整備されていった。周縁的な共同体間の取引であれば、共同体同士の一時的なやり取りで済むのだが、経済規模や取引が広域化するためには国家的な枠組みが必要であったといわれている。[5]

経済諸制度の国家的な整備は、規制や統制をももたらすものの、他方で広範囲な商業取引を解放し、経済保護を行うことで後の産業革命への下地を作っていくのである。ハイルブローナーはさらにプロテスタンティズムなどの宗教精神の変容、そして科学技術の産業への応用などを主な経済社会変化の要因として挙げている。国家間の貿易や競争が生まれるにつれて、国家経済の富を計測するための貨幣としての普遍性が確立し、産業資本の成立とともに貨幣が資本として機能するようになっていった。

貨幣は近代的な市場経済が登場するまでは、一般的な流通財ではなく、前述のとおり種族間や共同体間などの交換のための部分的な交換財でしかあり得なかったのであるが、国家間の対立や前産業社会の興隆によって、貨幣経済の拡大が起こると、貨幣や金銀を富の普遍的な量として使用するようになった。重商主義の時代である。重商主義の時代は、ヨーロッパ諸国の戦争の時代でもあり、国家の経済力と戦費の調達を行う国家財政を確立する必要にせまられていたときでもある。

この頃から生産的であるということの意味が、労働生産物を生み出すということから変化していく。貨幣で計測可能な富を増加させるための労働や資本が生産の源泉であり、使用価値としての労働生産物ではなく資本制商品経済による貨幣増殖への寄与こそ生産的であると考えられるようになっていった。『市民政府論』では自然状態の社会における土地や労働生産物は個人の労働の所産であり、所有であることに対して、貨幣による財産の蓄積と拡大という運動は、個人の生産や所有を超えて所有することを可能とし、自らの労働を離れた価値を余分に所有する権利を発現させたと説明されている。[6]

貨幣が発明され、貯蔵によって財産を増やすことが可能となると、人々は剰余に対して自らが所有する財以上の財産を貨幣によって蓄えられるようになった。共同体の中でもしくは家族ないで労働をしていたときには、「他人の権利を侵害する余地はなかった」のに、貨幣の登場によってこの調和は崩れてしまう。これを克服するためには所有を社会的に承認する必要が発生し、国家においては法がその所有権を規律するのである。つまり資本主義前夜における広域的な経済活動の拡大と、国民国家の興隆は不可分であり、それらの重層的な動きの中で市場経済から資本主義経済へと移行する流れを形成していったのだと考えられる。

そして第一次産業革命がイングランドをはじめ、ヨーロッパ各地に広まると、都市人口の拡大と、食料需要の増大をもたらした。土地の囲い込み運動によってヨーロッパでは土地は私有財産とし、労働力とともに市場で取引される経済的資源へと変化していった。マルクスが指摘するように土地と労働力が商品化されることで、私有財産制を中心とした市場経済への転換が完了したのである。日本においても江戸時代の封建的な時代から明治時代へ移ると、身分制の廃止や土地売買の自由化によって資本主義化が可能となっていった。[7]

市場経済や商品というものが古来の生活では副次的なものであったことに対して、この新しい経済体制は、商品による商品の生産から剰余価値を抽出し資本が自己増殖する運動が全てであり、貨幣価値(交換価値)の増殖を目的としていた。ここでは商品化と商品化における生産性の上昇が問題であり、使用価値や労働はそれに従属する奴隷となっていったのである。資本家となった者は財や土地を囲い込み、資本を稼働させることで利益を得ることが可能となった。歴史家のモーリス・ドップはこの変化を次のように指摘している。[8]

資本に対する生産の従属と、資本家と生産者の間におけるこの階級関係の登場は、旧来の生産様式と新たな生産様式を隔てる、決定的分水嶺と見なされるべきである — 『資本主義発展の研究』モーリス・ドップ

この資本の運動のなかでは、資本はかたちを変えた貨幣にすぎない。貨幣が資本に転化することによって、その資本が剰余価値を生み出しながら、貨幣が貨幣の増殖をとげていく経済が資本主義経済である。現代社会の病理であるスキル偏重、価値至上主義(交換価値における)はこのような資本へ従属する労働の包摂をもって正当化されていくのである。この世界観では市場が全てであって、個別的な人間性や具体的な事物の使用価値というものは脇へ追いやられもっぱら市場や貨幣的な価値が主題となっていった。

いまイノベーションによる生産性の向上や、グローバルサウスへの労働力の移転による剰余価値の収奪も行き詰まりを見せている。労働分配率を限りなく低くすること、イノベーションを促進する社会的システム、人材の非正規化や海外移転による安価な労働力の獲得はすべて剰余価値(マルクスによれば絶対的、相対的、特別剰余価値などがある)を捻出し資本主義を生き長らえさせるための方策に過ぎない。ジェレミー・リフキンは『限界費用ゼロ社会』の中で機械による生産が支配的になると生産・流通における限界費用がゼロへ近づくために、剰余価値は消失し所有権は意味を失うだろうと説いている。[9]

資本主義は、人間生活のあらゆる面を経済の舞台に上げるためにある。その舞台では、人間生活は商品と化し、財として市場で交換される。人間の営みのうち、この転換を免れたものは皆無に近い — ジェレミー・リフキン

さて情報化社会と携帯端末・スマートフォンは我々をさらなる剰余価値の創出に駆り立てている。スマートフォンを使用することで、端末を使用している間はあらゆる時間にデータという価値を提供し、我々は資本による剰余価値の増加運動に協力しているのだ。人は労働商品であることすら超えて、もはや資本のための死せる機械となっている。資本主義は実質的包摂だけでなく、人の思考の精神的包摂をも完了させたのだろうか。この精神的包摂の段階にあっては資本の運動のために働く労働は人でも機械でもよく、また純粋機械化経済下にあっては機械が生産の手段から、生産そのものへなっていくのだから、限界費用はゼロへ漸近し、最終的には剰余価値の収奪も困難となるだろう。

マルクス的な唯物史観によれば、資本主義は支配と被支配による階級闘争であったが、この資本主義が最終的な社会構成であり、大資本への一極集中、土地や労働の社会化などを経過して最終的には状況が終焉すると言われている、『この社会構成をもって、人間社会の前史は終わりを告げるのである』と。マルクスはこの資本主義が終わるところまでを人間社会の前史と捉え、そのあとに新たな人類の章が始まるのだ、と主張するわけであるが、その形態は支配と従属というような対立を止揚したところにあるジンテーゼなのかもしれない。

一般的な市場から資本制への変遷を見てきた。ここに収奪する支配者である資本とという主体と従属する客体である商品化された社会・労働という関係を発見できる。今回は例として市場と資本制を取り上げ、その変容と行き詰まりを見たが、ここに前提とされているのはこの支配と従属という関係性ではないだろうか。このような思考様式はどこから生成され、芽生えてきたのか、次章ではその源流をギリシャの哲学から探索してみようと思う。この形式が超歴史的なものではなく偶然に発見され採用されてきたものだ、ということを通じてこの思考様式が基礎となる観念を根底から疑うということを試みてみたい。

超自然的思考

美術史家のジョン・エルスナーとケント大学のロジャー・カーディナル教授による『蒐集』において、ヨーロッパの歴史とは蒐集の歴史であり、古代ローマ帝国の時代より、ヨーロッパはこの蒐集という活動を行ってきたと述べている。彼らの言葉にしたがえば、ヨーロッパ初の蒐集はノアの方舟であり、それ以来、中世キリスト教は魂を蒐集し、近代資本は商品化を通じて社会を蒐集してきたということが言えそうだ。つまり資本主義の興隆以前から既にヨーロッパでは戦争による領土の蒐集、宗教による思考の蒐集を行ってきたのであり、その行き着く先が資本主義による利潤の蒐集と社会の商品化であったと言えるだろう。[10]

このような蒐集による収奪の思考様式の根底にあると考えられるのが、古代ギリシャのプラトンを源流とした、超自然的思考の方法、またそれを参照しなが自然を死せる物質として見るような物質的自然観であったのではないかと考えることができる。プラトンは、現象的に見えているものはイデアの模像にすぎず、その形相はすべて材料(ヒュレー)から作られると見た。超自然的思考とはすべての存在である全体を捉えたときに、それら全体を看守するような立場から存在を問うような思考のことであり、プラトン以降の西洋の文化圏に生まれた特異な存在に対するものの見方である。これは一般的に哲学と呼ばれ、以降西洋の思想および文化形成の軸となってきた。

木田 元は著書の中で、ソクラテス・プラトン以前の思想家たちは、万物を自然と見る自然観を持ちプラトン以降、20世紀まで受け継がれるような超自然的な原理は持ち合わせていなかったと記述している。自然(フュシス)という言葉が「なる」「生える」「生成する」という意味のフェスタイという動詞から派生することから、古代ギリシャの人々は自然を自ら成り出でたもの、生成し消滅するものとして捉えていたことがわかる。ハイデガーは『ナトルプ報告』の中で、アリストテレスにおいては”あること”が既に”作られてあること”だと見なされるようになっていることを指摘し、その時代における存在概念の転換を述べていた。[11]

一度プラトンがイデアという超自然的な原理を設定すると、自然はその原理に基づいて形成される材料・質量と見なされるようになり、アリストテレスで純粋形相への運動として、カントにおける理性による認識対象として、またはヘーゲルにおいては精神によって形成されるものとして引き継がれていくことになる。この超自然的な存在論がプラトンの「国家」の考え方の基礎にもなっており、またキリスト教神学においては世界創造神として重ね合わされたことを見ると、超自然的な存在論が国家・宗教や会社組織が作られるような秩序を定めていくところの基礎的な考え方になっていると考えることができる。

プラトンがどのようにしてこの超自然的思考へたどり着いたかは分からないが、イデアや純粋形相の考えには、唯一神への信仰を導入するような部分があり、プラトンがソクラテスの刑死のあとに旅したユダヤ人の居住区であったキュレネやピュタゴラス教団の地においてその思想の形成および整理をした可能性があると考えられる。プラトン哲学やアリストテレス哲学はその後、古代末期になりキリスト教の教義体系を構築するための下敷として使用された。新プラトン主義を経由したプラトン哲学からキリスト教の教義体系を組織したのがアウグスティヌスであり、6世紀にローマ・カトリック教会の正統教義として採用されてから、13世紀まで正統教義として機能し続けることになる。

その後、超自然的思考はデカルトにおける理性主義では、神的理性に担保された理性の部分が存在の認識を可能とすることで、啓蒙理性主義の時代においては、カントが人間が生得的に持つ理性的機能が現象界においては妥当であるということを通して人間理性がその役割を負うことができると考えられるようになっていくのである。カントはこの超自然的原理の役割を果たす人間理性を「超越論的主観性」と呼んでいるが、この言葉はプラトンが国家篇の中で持ち出した「存在を超えて」という表現が元となっている。プラトンの超自然的思考が地続きとなり、ヘーゲルの歴史的世界を形成していく絶対精神の哲学として近代的に更新されていくことで超自然的思考様式が完成したのである。

ヘーゲルが没した1830年は、イギリス産業革命のときであり、科学技術を基礎とした工業化や土地の囲い込みによる資本制経済の進行が見られる時期であったが、これらがヨーロッパの文化形成を行ってきた自然を死せる物質としてみるような超自然的思考が端緒であったのは間違いないのではないか。そしてハイデガーがノルマンディーでの講演の中で「西洋の歴史の内的歩みが哲学的だということは、この歴史の歩みから諸科学が発展してきたことによって証言される」といったとき、超自然的思考すなわちギリシャに生まれた哲学という知の総体がヨーロッパ文化・社会を形成してきたということが明らかにされるのである。

超自然的思考によって存在者が何であるかと問うこと、これ自体が哲学的な問いなのだと、ハイデガーは言う。存在者全体に対して存在を問うとき、これを問うものは問いかけられる存在の全体の外からの視点を持ち、特権的な位置から俯瞰しているからだというのである。宗教、国家や科学と工業のヨーロッパにおける発展は、この特権的で超自然的な位置からの収奪と蒐集の結果にほかならず、古代ギリシャで根源的自然観から超自然的な思考様式へと転換したところからその歴史が始まっていると考えられる。

19世紀~20世紀の哲学者が、マルクスが古典経済学を批判し経済批判を行ったように、この超自然的思考が生まれる前の根源的自然観を復権することでこの行き詰まりの危機を打開しようとした。ニーチェ以降の哲学は、それまで西洋が培ってきた文化・社会を相対化し乗り越えようとしたという共通項があり、アンチフィロソフィ(反哲学)という視点を無視することができなくなった。ここでこの反哲学に深く入ってゆくわけにはいかないが、その後のポストモダンと呼ばれる構造主義・ポスト構造主義なども西洋の世界認識を批判し解体しようという動きに他ならない。

さてここまで超自然的な思考様式とその発展、そのことがヨーロッパの文化や社会の深く結びつき、蒐集というコンセプトが収奪を可能とすることで、現代資本主義や現代思想へ繋がってくるという世界線を見てきたつもりである。そこで今度は時間を遡って、プラトンが超自然的な思考を設定する以前、つまり存在するものの全体を問うような存在をおかず、万物がおのずから生成し消滅するような自然観、自然的な存在観念を再考することでどのような社会が形成される(された)のかを見てみたい。

仮にこれまでの社会における社会概念・存在概念が超自然的な思考を基礎とすることで成り立っているとするならば、この前提が覆った場合にどのような上部構造としての社会やシステムが成り立つのか、ということを問うことにする。そして前章で記述した自然や言論というものを下部の公共性として見た場合に、その上部構造はどのように作り替えられるのか、また超自然的な思考が中央集権をもたらしたのだとすれば、生成・消滅する自然という存在概念と非中央集権的なブロックチェーンはどのように結びつけられ得るのか、ということを検討していきたい。

Reference

  • [1] ブロックチェーン ~その公共性とイソノミアへの導入~
  • [2] ドン・タプスコット、アレックス・タプスコット — 『ブロックチェーンレボリューション』
  • [3] 西川潤 — 『新・世界経済入門』
  • [4] カール・マルクス — 『資本論』向坂逸郎訳
  • [5] ロバート・ハイルブローナー — 『経済社会の形成』
  • [6] ジョン・ロック — 『市民政府論』鵜飼信正訳
  • [7] Yuya Sugano — 『極度破砕する経済
  • [8] モーリス・ドップ — 『資本主義発展の研究 一・二』京大近代史研究会訳
  • [9] ジェレミー・リフキン — 『限界費用ゼロ社会 〈モノのインターネット〉と共有型経済の台頭』
  • [10] ジョン・エルスナー、ロジャー・カーディナル — 『蒐集
  • [11] 木田元 — 『反哲学入門』

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イソノミアへの導入部で公共性についての走り書き。ブロックチェーンの特性から見る公共への適用と、抽象化する高次の公共編み変えの動機について。公共性の装置としてのブロックチェーン活用の可能性。TBD: スマートコントラクト、DAO(Decentralized Autonomous Organization)

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前書き

資本主義の終焉が叫ばれて久しい。

経済成長という餌を追い求めていまだ資本主義は息をしている。『資本主義の終焉と歴史の危機』において、いま現在は、歴史家フェルナン・ブローデルが「長い十六世紀」と呼んだ転換期へ匹敵するような時期であるといわれている。なぜなら各国の短期金利は0%近く、この金利の低下イコール資本利潤率の低下であることが理由である。資本を投下しそこから利潤を得て資本を増殖させることが資本主義の性質であり、資本の増加が見込めないということは資本家や投資家が資本を投下する必要性がない、つまり資本主義が機能しないということになるからだ。

シドニー・ホーマーとリチャード・シラーによる「金利の歴史」は、紀元前3000年のシュメール王国から現在に至るまでの世界の金利が記されている。現代の世界各国は、十七世紀初頭のイタリア・ジェノヴァにおける低金利の状態に次ぐ異常な低金利状態であり、水野和夫が「資本主義の終焉と歴史の危機」で呼ぶように、現在はまさに第二の「利子率革命」のときであると言えるだろう。十三世紀に利子率がローマ教会によって公認された以来の大きな出来事であるとも書かれている。[1]

同著では利潤率の低下がいつごろ始まったかについても触れており、1970年代のオイルショックにより、エネルギーコスト・資源価格の高騰が発生、さらにグローバリゼーションによって地理的・空間的な拡張がこれ以上は難しくなったことに起因すると述べられている。このことは交易条件の悪化や空間の拡大の困難さから説明されている。アメリカはサイバー・金融空間へと舵をきることで利潤の機会を発見し、資本主義の延命に成功した。地球上での空間開発が限界であることから宇宙空間への空間的開発も主要先進国は目指しているように見える。

これらのサイバー・金融空間への拡張、宇宙空間への地理的拡張は資本主義を延命させるための装置であると考えられるだろう。つまり技術革新と開発の手綱を緩めず資本主義・国際競争社会を継続し開発の範囲を拡張していくということである。そしてこれは、既得権益層である資本主義陣営が推し進める世界の在りようであり、人々の望む望まないにかかわらず動きを停止させることは困難であるように思う。アメリカの数字ではあるが、1985年ごろのアメリカの全産業利益における金融業のシェアは9.6%に過ぎなかったものが、2002年には30.9%にまで上昇している。

アメリカが主として展開したサイバー・金融空間の拡張において、資本は国境を越え世界を駆け巡るようになった。金融のグローバル化がこの要因だが、1980年代後半以降、各国で資本取引の規制が緩和されるようになったことが理由として挙げられる。デリバティブの登場(ブラック=ショールズ・モデルの理論発表が1973年)や様々な高度証券化商品(モーゲージ担保証券、資産担保証券、不動産投資信託)など以降多くの金融商品が開発されていったのもこの時期であった。1933年のグラス・スティーガル法による銀行業務と証券業務の分離は、1999年のグラム=リーチ=ブライリー法によって大幅に緩和されている。後ほどみるがローンの証券化によってサブプライム・ローンを組成するためのモーゲージ担保証券(MBS)やMBSを含めて再証券化した債務担保証券(CDO)が開発されていった。

Money is information on the move

「マネーとは動きまわっている情報である」とは1980年半ば、アメリカの最大手銀行持ち株会社のトップが使っていた言葉である。現代の管理通貨制においては、金との兌換が保証された時代とは異なり、貨幣は実体的な根拠を持たない。ほぼ全ての金融資産は預金も含め、金融機関で処理されるデータであり、それらは現在では国家や法律が経済的価値を認めるところの債権(請求権)であると考えることができる。日本円(日本銀行券)は日本国・日本銀行に対する債権であると見なす必要がある。

第二次世界大戦後の貨幣システムは金ドル為替本位制であったが、アメリカ以外の周辺国は、金の代わりに金にリンクした米ドルを保有することで間接的に金とのかかわりを維持した。このブレトンウッズ体制は1971年のニクソン・ショックによる金ドルの交換停止によって崩壊し、各国は管理通貨制へと移行していった。ブレトンウッズ体制の崩壊、80年代の金融のグローバル化と金融商品の開発、先進国の金融緩和など非伝統的金融政策によって金融資産の拡大が続いていった。[2]

地理的・空間的な拡張である実物経済の停滞下において、金融資産の拡大はたびたび金融バブルを起こしてきた。金融バブルは極限どこかで限界に突き当たり弾けるのだが、その破裂が実経済や金融経済面での壊滅的な破壊を必ずしももたらすわけではない、この理由は公的資金の注入という国家による救済が行われるためである。このような公的資金による救済はベイルアウトと呼ばれている。サブプライムを発端とした金融危機はベイルアウトによる救済の連続であった。

2007年には、サブプライムという低所得者向けのローンによる金融不安が発生し、イギリスのノーザン・ロック銀行で取り付け騒ぎが発生した。これが世界的な金融危機へ繋がるリーマン・ブラザーズの破綻へと発展する。FRBは2008年から2011年にかけて二次の量的緩和策(QE1/QE2)を取り、1次では1.6兆ドル、2次では6000億ドルもの資金供給を行った。また金融のグローバル化に伴い通貨危機も幾たびも発生している。1997年タイから始まったアジア通貨危機、1998年のロシア、1999年のブラジルなどの例である。これらの通貨危機は本質的に固定相場制を採用していたことで、大量の資本が流入にしていたことに起因する点で2000年以降の世界的な金融・経済危機とは異なっている。

2007年のサブプライムローンだけでなく、2009年に発覚した財政赤字によるギリシャの金融危機(2018年6月に金融支援から脱却)やイギリスのEU離脱(Brexit)など近年は先進国・西側諸国から国際的な金融危機の広まる可能性が高まっている。サイバー・金融空間による金融資産の累積・増殖は金融危機を経過しながらも、金融緩和政策などによっていまだに増え続けている。※世界全体の金融資産の累積は2005年の178兆ドルから294兆ドルに増加 [Deutsche Bank, Sanjeev Sanyal 2015]

現代の管理通貨制においては、新自由主義の考えに基づき、規制を緩和し、市場機能の発揮される領域を広げてきたはずにもかかわらず逆に市場の自浄作用が働かずモラルハザードを起こしてきた。リーマン・ショックと続く欧州危機によって、個別の金融機関の健全性だけを監視しても金融システム全体の安定が脅かされうることが認識され、金融システム全体の健全性を維持する規制(マクロプルーデンス)が検討されるようになった。また「ノーカット運動」という政府による救済ではなく、多国籍企業からの微税を社会保障の財源とする市民運動も欧州を中心に広まっていることも象徴的である。

さて、そのリーマン・ショックの金融危機のさなかに登場したのがビットコインであった。ビットコインのジェネシスブロックの余白には2009年の銀行救済についての記事の文字が刻まれていることは有名である。これは同日の英国の全国紙『ザ・タイムズ』の1面トップ記事の見出しである。英国や米国が破綻の危機にさらされた主要金融機関を公的資金によって救済する、そのような「Too-big-to-fail」(ベイルアウト)に対する強いメッセージがビットコインには含まれているのだ。

The Times 03/Jan/2009 Chancellor on brink of second bailout for banks(『ザ・タイムズ』2009年1月3日、英財務相、銀行に2度目の財政援助へ)

2008年10月に公開されたビットコインの論文は「ブロックチェーン技術を使った中央管理者のいない決済システム」と題され、ビットコインが同意している二者が信頼できる第三者を必要とせず、直接取引が可能な、トラストの代わりに暗号的証明に依拠する支払いシステムであると説明する。銀行のような第三者を必要とせず取引可能で、公開された分散型台帳にやり取りが記録されるペイメントシステムである。

Satoshiが注意深く設定した世界の境界線』で述べられているとおりビットコインのシステムは外部の中央集権的な取引所での法定通貨との交換や決済については想定していない。つまりビットコインの世界内でビットコインによる支払いを行う場合に限り、非中央集権的でトラストレスな二者間の支払いが可能となるということを提案しているだけである。中央集権な交換所を通して実物のアセットと交換するにはまだ多少のリスクがあるが、本質的には国家の管理や特定の主体の信用からは切り離された分散型の支払い手段として機能していると言えるだろう。[3]

つまりビットコインで閉じた世界であれば二者間の二重払いを防ぐ取引が可能であるが、この外の世界、交換所や販売所そして決済については言及されていないということだ。エルサルバドルがビットコインを法定通貨(リーガルテンダー)として採用することを進めているが、ビットコインだけで税金等も含む様々な経済活動が成り立つのであればSatoshiペーパーによって表現されるトラストレスな世界に近づいていくかもしれない。そしてそのような世界は少しずつ実現しつつある。

通貨の発行、預金や送金のような機能がビットコインの世界では銀行や国家を介在せずに実現できるようになっていることを見てきた(現在は取引所との複合)。ビットコインの送金などのトランザクションや管理はマイナーと呼ばれる世界中で運用されるコンピュータで計算され、ビットコインを保有するアドレスの取引は分散型台帳を見ることで誰でも確認が可能である。このような特性は非中央集権で透明性があり、改竄不能な分散型台帳としてしばしば表現される。改竄可能性については詳しく触れていないが、ビットコインでは確率的ビザンチン合意に基づくことによって計算結果に決定性を与えることとしている。

ビットコインはブロックチェーン技術を基盤としたペイメントシステムであるが、ブロックチェーンの非中央集権・トレストレスという特性は金融などの取引ひいては契約や様々な主体間の作用に対しても有効に活用できるということが分かってきた。支払いシステムとしてのブロックチェーンの活用ではなく、汎用的なブロックチェーンによってアプリケーションのプログラム自体を実行できる仕組みを実装したものがEthereumである。Ethereum上で動作するプログラムはスマートコントラクトと呼ばれ、スマートコントラクトによって動作するアプリケーションはDApps(Decentralized Applications)と言われる。ここ数年はEthereumを含めた様々なチェーンを使用したDeFiやNFTといったDAppsの利用が拡大している。

TBD、スマートコントラクト
広義のスマートコントラクト、狭義のスマートコントラクト
貨幣の機能のアンバンドリング、減価する貨幣(シルビオ・ゲゼル)

処理・契約の自動執行、中間者の排除による手数料の削減、改竄不可能性と常時確認可能な透明性、止まることのないシステムとしての耐障害性。

人類学や比較歴史学の研究から部族社会における互酬主義に基づく交換の習慣として贈与分配が見られることが分かっている。市場取引の源流とも言えるこのような人間社会における交換に際して、取引が円滑に行われるためには「情報の非対称性」と「契約の不完備性」という2つの要因を解決しなければならないであろう。この要因は市場取引、金融取引においても解決が必要な課題であり、これらの問題によって様々な非効率性が発生していると考えられている(市場の非効率性)。

情報の非対称性とは、品物や商品に対する情報や交換対象者について知り得る情報のことである。交換においては交換対象者に支払い能力が十分にあり、与信が適格であることなどが挙げられる。契約の不完備性とは、当事者同士の契約が想定通りに履行され得ない可能性、すべての状態や状況を事前に詳細に契約で決めることは不可能であることに由来する。

スティグリッツによれば市場経済において、ほとんどの市場では参加者は完全な情報を持っていないと仮定している。品物の市場にせよ労働市場にせよ、市場は不完全競争、不完全情報、外部性といった要因を持ち市場が経済効率を最大限に生み出すという役割を果たさなくなっていることを示しているという。経済学ではこうした種々の問題は市場の失敗としてよく知られている。[4]

先の述べた「情報の非対称性」と「契約の不完備性」という2つの要因においてインターネット・IPが「情報の非対称性」を緩和する情報交換のプロトコルとして、ブロックチェーンが「契約の不完備性」を補強する価値交換のプロトコルとして重要な役割を果たしていることに注目して欲しい。インターネットによって私たちは売りてや買い手、また市場の状況や商品の情報をより得やすくなっている。また前述した通り第三者による管理や執行が不要なスマートコントラクトによって通貨・債権・株式などの価値を地理的・時間的・コストを抑え実行できるようになっている。

インターネットは従来的に安全ではない通信網であるが、情報の移転や情報交換を地理的・時間的・コスト的制約から解放することに成功した。ブロックチェーンはそのインターネット上に抽象的な価値交換のレイヤーを作り、通貨や資産などの価値の取引や交換を地理的・時間的・コスト的制約から解放しようとしているように感じられる。このような性質からブロックチェーンを全般的に価値交換のプロトコルと呼ぶことがある。[5]

TBD、DAO(Decentralized Autonomous Organization)
会社・政府・組織などの機能をスマートコントラクトで置き換え可能。
透明性・公平性のある運営、耐障害性と不改竄性を備える。

DEX・MakerDAOなどDeFiプロトコルにおけるガバナンスのDAO化、アメリカ・ワイオミング州におけるDAO法人の法的承認。[6]

Coordination, Public Goods and Crypto (Part 1)
Coordination, Public Goods and Crypto (Part 2)

公共性

インターネットはBGPによってASが自律分散的にルート交換をするシステムとして成り立っている。類似してブロックチェーンはピアツーピア型のネットワークで非中央集権的なタイムスタンプの概念を使用しており、そのシステムを止めることなく暗号学的に以前の計算結果の改竄を不能とするようなシステムとなっている。これらは従来の組織である会社や国家、または個人が運用するシステムとは性質が大きく異なっている。それは中央の管理者がいないという点である。

amazonのサイトはamazonのインフラに事故が発生したり、amazonが倒産した際には止まることがあるかもしれないが、インターネット・ビットコインというシステムは基本的に止めることができない(人類が消滅した際を除く)。ビットコインにおける取引やEthereumのステートなどパブリックなブロックチェーンではその計算結果や取引を誰でも閲覧できるため、トランスペアレントであるとも言われる。これらの性質によってブロックチェーンにより実現される通貨やアプリケーションは公共性を帯びていると考えられている。[7]

これまで我々は共同幻想としての日本国や日本銀行の信頼の表象であるところの日本銀行券を債権として使用してきた。むしろ使用することを強制されていたともいえる。税金は日本円強制サブスクリプションだとネット上で揶揄されていたがあながち間違ってはないだろう。ブロックチェーンやチェーン上で発行される暗号資産が百花繚乱の様相を呈してくると、物理的な生活のレイヤーの上において仮想的な経済圏、ガバナンスやスマートコントラクトによる契約の執行を行うことで物理的な世界の生活圏をオフロードするような動きが可能となってきた。

このことは選択の多様性をもたらし、通貨やアセットといった価値を特定の国の法律圏からはみ出るような形で所有し交換することを可能とする。各国においてはそのようなデジタルな資産に対する規制や建て付けはあるものの、個人のIDと直接結びつくことのないブロックチェーンに使用される秘密鍵からでは誰がそれらの資産を持っているか特定することは難しく、またブロックチェーン自体が非中央集権的であるためにどこに所有しているのか、ということも言い当てることが困難である。

1980年代以降に金融の自由化やグローバル化が進むと同時に、労働や資本の、情報の国際的な移動、インターネットの発展と多国籍企業の進展によって第二次グローバリゼーションが生じ、法律・会計面、社会体制や思考様式などが画一化される傾向が見られた。ドイツの社会主義者K・カウツキーは、超帝国主義という言葉でこの潮流を表現した。さらにこのような画一化とは別として、巨大IT企業の租税回避問題や、一部の宗教・イデオロギー的な活動の拡大によって国民国家といった概念を超えた脱国家的・超国家的な枠組みや動きも現れた。

ブロックチェーンもその文脈においては国家の枠組みを超えた超国家的なシステムでありまた公共性があるということができるが、その性質は社会や国家による公共・公共サービスというよりも自然的な公共に近い性質を持っていると考えることができる。星 暁雄氏の『ブロックチェーンは公共のものか』内のアンケートにおいても公共性は、”誰に対しても開かれている性質”であるとする回答が多いことからもブロックチェーンの持つ公共性は国家・社会といった単位より広範囲な公共と捉えられていることが分かる。

さて公共性というものが”誰に対しても開かれている性質”と言う前提のもとに同記事では社会学者の橋爪大三郎氏が2000年に発表した論文「公共性とは何か」(社会学評論、50 巻 4 号)で提示される「公共性の装置」という考え方が展開される。税、王(主権力)、法、宗教、市場、言論──これらはいずれも「公共性の装置」であり、様々な「公共性の装置」が組み合わさって私たちの社会を形成している。

都市国家が形成された古代ギリシャ(ポリス・オイコス)や中国(臣・民)においても私的な領域と公的な領域は存在していた。また社会人類学によれば都市国家が成立する前の氏族や部族社会においても公的という概念がある程度認められるという。部族社会における互酬主義に基づく交換の習慣として贈与分配が見られることを述べたが、橋爪論文では、公共的な問題領域が目に見えるかたちになった最初の証拠は税であるとしている。税は通常の社会関係である互酬的な財のやりとり(贈与)と対照的にある範囲の人びとからの一方向的な財の移動である。

税だけでなく市場・法(宗教)・社会契約などそれぞれの公共性には社会における個々の交換や問題、紛争などを解決・緩和するための「共同利害」が存在している。国家において税による公共サービスは、公共財の維持補修や生産に使用され、特定の組織(エージェント)によって提供される。共同利害というものを国民が認知している限りにおいて税のような一方向的な財の移動を、また法においては利害の解決のための法の執行を人々は受け入れる。法や国家においては公共性を維持するための組織(エージェント)が必要となるが、ここではこれを非自然的な公共と呼ぼう。

ここで先ほどブロックチェーンの持つ公共性が自然的な性質である、と述べたことを思い出して欲しい。公共性における自然的・非自然的とは何か。非自然的な公共とは人為的でありそれを維持するための組織(エージェント)が必要となる公共としよう。例として国家、法(宗教)などである。これらは公共を提供するための中央主権的存在であるエージェントがいない場合には維持することが困難になる。税を徴収した場合、公共サービスを提供する国家とその組織がその役割を担当することが挙げられる。

対して自然的な公共とはエージェントの存在を不要とする、つまり中央主権的な存在によってコントロールされない公共性である。それはすなわち自然そのもの、または言論などである。市場経済もある程度において社会における自然的公共ということができるかもしれない。ブロックチェーンの性質は自然的な公共の上に非自然的公共(通貨や法)をシステム的に成り立たせることを可能とする特徴を持っている。つまり自然的な公共の上にオーバーレイを作る公共であり、この公共性によって既存の国家や法律といった非自然的公共を書き換えるような働きを持つことが可能となってくる。

星 暁雄氏もこの「公共性の装置」の中で、税や権力や法は国家の管理下にある一方で、市場や言論は国家と独立していることに価値がある、と述べている。そこで存在自体に第三者・中央主権的な存在や管理を必要としない自然的公共がそうではない公共を前提していると考えることができる。この文脈において国家など高次の公共はより低次の公共より脆弱な性質を持っていると言えるのではないだろうか。低次の公共という下部構造によって非自然的公共が支えられているという構図を見て取ることができる。

市場経済は、普遍的なものである。国境や制度や民族の垣根をこえ、地球上をどこまでも拡がってゆく。一 般の商品に加えて、資本や情報もすみや かに移動するようになり、経済のグローバ ル化は、とめどもない趨勢とな っている。地球上の誰もが誰もと、自由に商取引を行なうのが、その究極の姿である。それに対して、公的サーヴィスが提供される範囲(すなわち税を徴収する範囲)は、地球上のごく局限された区域にとどまっている。

自然環境という自然的公共は限界費用がゼロに近く非排除性を持っている、これらの性質は経済学でいう純粋公共財の概念に近いが、ブロックチェーンもこのような性質を持つことが自然的公共とみなすことができる理由でもある。経済学における外部性の問題、例えば大気汚染を引き起こすような工場、大量の漁獲や乱獲による自然環境の毀損はそもそも所有権がないことが問題であるとされている。たとえば大気というのは地球全体の資源であり、誰の所有物でもないことから、この資源の利用を安全・効率的にするインセンティブが働かないのである。パブリックなブロックチェーンも同様に非中央集権的であり誰の所有物でもないという性質を持つ。

自然環境に対する一般的な所有権や権利というものを示すことはできない。このことを政治的には処理できないことが、地球温暖化などを引き起こす温室効果ガスの排出を削減できない主な原因と考えることができる。例えば個人や社会へ社会的費用を使用者へ支払わせるような仕組みを導入することができれば、自然環境の資源を効率的に使用するようなインセンティブを使用者へもたらすことができるはずである。論文では地球温暖化対策のため二酸化炭素排出を削減するための「炭素税」の導入を全地球的に推進するには、国を越えた人類規模の「公共性の装置」が必要だと指摘する。

環 境 そのものが、一種の公共財(経済活動に対する無償のサービス)であることがわかる。それはすべての国々の経済活動にとって、不可欠の前提となっている。そして、すべての国々が勝手に経済活動を行ない、環境を維持するコストを負担しなければ、破 壊されてしまうのである。

このような超国家的な公共性を達成するためには低次の公共性として活用しうるブロックチェーンのような技術で高次の公共性を実現するほかないと考えるわけである。経済学における自然環境の負の外部性を、政府の経済政策によって解決することは、国家や法というものがある程度の文化的・言語的制限を持っている以上難しく、また地理的な範囲に閉じていることで広範囲な領域に対応させることは困難であることから、公平・公正な結果をもたらす介入をすることが容易ではない。たとえば環境問題について、従来の方法で国家間の利害を一致させることは困難を極める。

国家や法といった高次の公共性によってそれより低次の公共性へ働きかけることに困難さがあるということを示したい。たとえば国家レベルの利害が発生すると、それは地球規模など低位のレベルの公共性に対して相反する結果をもたらすことがある。アメリカによるパリ協定からの離脱はその典型的な例であり、自然環境への公共をないがしろにし私的国家としての利害を優先させている行動と見ることができる。そこで公共性の装置として国家が管理する通貨や法を乗り越え、また書き換えるようなブロックチェーンの持つ公共性の活用が期待できるのである。

ブロックチェーンの持つ公共性は下部構造であり、その上部構造としての非自然的公共を構成できる可能性について述べたが、この抽象化された公共は国家のように人々を縛るものではなく選択肢を与え個人へ、より自由をもたらす点に注目して欲しい。例えば、日本国に出生した場合、日本銀行の債権である日本円、日本での法律や慣習といったものに個人の活動や考え方が制限されるが、抽象化されたレイヤーにおいては個人が経済圏や個人として好ましいと考える公共性の選択をしていくことが想像されるのである。この選択の自由は従来の国や民族、または宗教といったような公共を作り出す装置とは別の系として存在できるのではないだろうか。

橋爪論文においても長い目でみると経済的な格差、制度や文化の違いは縮小され、十分に長い時間がたてば世界は1つの市場に統合され、単一の経済的な公共空間となる可能性について触れている。このときに国家やその法という系とは別の公共がこのような世界を下支えしていると想像するわけであるが、公共性の装置として国家が管理する通貨や法を書き換え、非中央集権的に運用できるブロックチェーンの持つ自然的な公共性の活用が、現在さまざまな問題をかかえる上位の問題(地球環境破壊、地政学問題、宗教・民族問題)を緩和する糸口となるのではないかと考える。

ここまで、この章における個人的意見であり、また次章 ”イソノミア”のための骨子となる。以上。

Reference

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Yuya Sugano

Yuya Sugano

Cloud Architect and Blockchain Enthusiast, techflare.blog, Vinyl DJ, Backpacker. ブロックチェーン・クラウド(AWS/Azure)関連の記事をパブリッシュ。バックパッカーとしてユーラシア大陸を陸路横断するなど旅が趣味。